モロッコ系フランス人の映画監督シモーヌ・ビトンのドキュメンタリー『壁』(2004年)に、こんな場面がある。イスラエル国籍を併せ持つビトンが取り上げたのは、パレスチナのヨルダン川西岸とイスラエルを隔てる全長約720キロの分離壁の建設だ。

巨大なコンクリート板がゆっくりとクレーンで設置されるにつれて、向こう側の丘に広がるパレスチナの町が小さくなる。そしてある瞬間、目と鼻の先にあったはずの世界があっけなく消える。

パレスチナ人に課される制約を研究する私にとって、この強烈なシーンはイスラエルが数十年来進めてきた分離壁、検問所、監視技術による隔離政策の縮図のように思える。

その構造が最も顕著なのがガザ地区だ。イスラエルは安全保障上の懸念と武装勢力の脅威を理由に1990年代にガザをフェンスで囲い、07年から封鎖を続けてきた。

パレスチナの途方もない苦難を記録するのが困難なのは、こうした障壁のせいだ。23年10月にイスラエルとイスラム組織ハマスが戦闘を開始して以来、パレスチナでは7万4000人以上が殺害された。

イスラエル政府は外国人ジャーナリストが独自にガザで取材することを、基本的に認めていない。またガザの住民は原則として地区の外に出ることを許されない。

監督2人の国籍を剝奪?

だが今年9月10日、ベネチア国際映画祭で『NAZA ナザ』が初上映されたことで、ガザに脚光が当てられた。

共同監督のユバル・アブラハームとラヘル・ショールは共にイスラエル人。2人は無残な遺体や破壊された町の映像に頼らずに、ガザの終わらない悲劇を描き出した。


『NAZA』を制作したイスラエル人ジャーナリストのアブラハーム(左)とショール ©THE GUARDIAN 2026

『NAZA』の中心は、イスラエルの軍と情報機関に所属する24人が匿名で応じたインタビューだ。民間人に多数の犠牲者が出るのを承知の上で、軍がAI技術を駆使しハマス幹部を標的にしてきた方法を彼らは明らかにする。

「NAZA」とは「巻き添え被害」を意味するイスラエルの軍事用語で、軍が爆撃で民間人の犠牲をどこまで許容するかを決める「しきい値」のシステムを指す。

23年10月7日、ハマス主導の武装勢力がイスラエル南部を襲撃。約1200人を殺害し、約250人を人質に取った。犠牲になったのは主に民間人だった。この奇襲以降、イスラエルはNAZAを用いてきたという。

本作が力を持つ理由の1つは、イスラエル軍がガザを遠隔攻撃する際の事務的ともいえるやり方に焦点を絞った点にある。イスラエルの手法が成立するのは、彼らが数十年かけてパレスチナの人々を組織的に孤立させたからだ。


ガザに対する遠隔攻撃について説明するイスラエル軍関係者 ©THE GUARDIAN 2026

イスラエルは壁の建設や封鎖に加え、イスラエルへの入国や就労を希望するパレスチナ人に対し許可証の発給を制限あるいは拒否してきた。上空からの監視や西岸での入植地の拡大を通じて、パレスチナ人の隔離を進めた。

『NAZA』はパレスチナの苦難がイスラエル社会で矮小化されている実態を、映像表現とテーマの両面から浮き彫りにする。

テルアビブの夜景をバックに、イスラエル軍兵士の証言音声が流れる。軍が標的を選定し、攻撃計画を練り、許容できる民間人犠牲者の数を決める過程を彼らは語る。

ガザはテルアビブからわずか70キロの距離にあるが、犠牲者の姿は基本的に映らない。

カメラが映さない出来事を暗闇の中で証言者の声のみに語らせる演出は、パレスチナの現実がいかにイスラエル社会でも国際社会でも不可視化されているかを際立たせる。

だからこそ、イスラエル政府は躍起になって映画の信頼性を損なおうとしているのかもしれない。軍は「現実を意図して歪曲した内容」が含まれていると批判し、ベンヤミン・ネタニヤフ首相は監督たちの国籍を剝奪すると脅した。

関心と反発が高まるなか、アブラハームとショールは『NAZA』を11月に英ガーディアン紙のウェブで無料公開すると発表した(日本では10月24日から劇場公開)。

『NAZA』では、攻撃する側とされる側の心理的距離を明らかにする。その距離を広げているのはAIであり、コンピューター画面であり、標的である人々が隔離された場所にいるということだ。ただし、パレスチナ人が目に見えない存在にされていることに人々の関心を向けようとした映画は本作が初めてではない。

02年のエリア・スレイマン監督のダークコメディー『D.I.』には、パレスチナ人の登場人物たちがイスラエル軍の検問所で足止めされたり、検問所を迂回しようとしたりする場面が繰り返し出てくる。ハニ・アブアサド監督の『オマールの壁』(13年)や、アミーン・ナイフェ監督の『200メートル』(20年)では、法を犯して境界を越え、危険を賭してイスラエル領内に入るパレスチナ人が描かれる。

24年の『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』は、イスラエルによる土地の収奪や住宅の破壊に対するパレスチナ人の抗議運動に焦点を当てている。これはアブラハームとショールが2人のパレスチナ人監督と共に制作した作品で、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

『壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び』(11年)でイマード・ブルナート監督が描いたのは、自らの暮らす西岸の村での、巨大な分離壁の建設に対する闘いだ。カメラを何度壊されようと、彼は村人の抵抗を記録するのをやめようとしない。

『NAZA』は、隔離と分断が殺人への加担を容易にするという現象も描き出している。標的となる人々との物理的距離が長いと、既に起きていることを黙って受け入れたり、なかったこととして扱うことへの兵士たちの心のハードルが下がるのかもしれない。

「罪の意識」ばかり描く

こうして『NAZA』は「イスラエル軍兵士の罪の意識」という、イスラエルの映画や文学ではおなじみのテーマにも切り込んでいる。この種の作品は揶揄を込めて「撃ちながら泣く」と呼ばれ、パレスチナ人の体験や視点を描かずに、イスラエル人の道徳的な苦しみばかりが描かれていると批判されてきた。

代表的な例がS・イツハルの1949年の小説『ヒルベト・ヒザ』だ。主人公は48年のイスラエル建国の際の戦争に従軍したイスラエル兵。村々からパレスチナ人住民を追い出す任務に就き、罪の意識にさいなまれることになる。

2008年のアニメーション映画『戦場でワルツを』も同じ系譜の作品だ。アリ・フォルマン監督は、思い出せなくなっていた自らの過去──1982年のイスラエルによるレバノン侵攻に兵士として参加し、パレスチナ人難民キャンプでキリスト教右派の民兵が起こした虐殺事件に、図らずも手を貸してしまった時のこと──を調べようとする。

「撃ちながら泣く」はイスラエルの主流の文化において基本的には受け入れられてきた。だが『NAZA』に対するイスラエル政府の敵対的な反応を見るに、政府と異なる意見に対する不寛容がイスラエル国内で広がっていることや、パレスチナ領をイスラエルが占領していることの道義的問題に対し、文化的にも政治的にも関心が薄れつつあることがうかがえる。

『NAZA』も主にイスラエル人の視点で描かれている。ここから見えてくるのは、パレスチナ人に対する暴力の話でも、語り手がイスラエル人であるほうが説得力も世間の関心も高くなるという現実だ。『ノー・アザー・ランド』も、パレスチナ人だけで制作されていたら、あれほどの反響は得られなかったかもしれない。

それでもパレスチナの人々は、自分たちの声を世界に届ける手段を模索し続けてきた。SNSに投稿される動画や画像も、世界の人々と直接つながり、パレスチナ人の苦難に対する認識を形作る役割を果たしている。

彼らがかいくぐり、乗り越えてきたのは、移動を制限する物理的な障壁だけではない。彼らの経験を外の世界から見えなくしていた文化的な壁も、彼らは乗り越えてきたのだ。

The Conversation

Drew Paul, Professor of Arabic, University of Tennessee

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

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