早朝、黎明之塔に集まった人々=6月23日午前5時過ぎ、糸満市摩文仁(筆者撮影)

早朝、黎明之塔に集まった人々=6月23日午前5時過ぎ、糸満市摩文仁(筆者撮影)

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[金平茂紀のワジワジー通信 2025](30)

 日本にいる限り、6月23日の沖縄慰霊の日は沖縄にいる。多くの場合、沖縄全戦没者追悼式典の取材をするべく糸満の摩文仁の丘に足を運んできた。

 「戦後80年」がまるで季語のように語られる今年、猛暑の那覇空港に降り立つや、米トランプ大統領が、イラン国内3カ所の核施設への軍事攻撃を行ったとSNSに書き込んだ。SNSへの書き込みが即時にニュースになる時代。今やSNSはまるで大本営発表の場だ。『海の向こうで戦争が始まる』という小説を読んだのははるか昔のこと。

 慰霊の日の未明、僕はどうしても見ておきたい場所があった。摩文仁の丘にある黎明(れいめい)之塔。戦時中、沖縄戦を指揮した日本軍第32軍司令官・牛島満中将を祀(まつ)った碑だ。

 牛島司令官は1945年6月23日に摩文仁で自決し(6月22日説もある)、沖縄における組織的戦闘はこの日に終わったことにされている。この碑はさまざまな論議を引き起こしてきた、いわば象徴的な場所だ。あえて二元論で整理すれば、「顕彰」と「非戦」の分岐点なのかもしれない。

 沖縄の陸上自衛隊第15旅団の旅団長らが、小泉純一郎政権発足後の2004年以来(ちなみに当時の防衛庁長官は石破茂氏だ)、連続18年にわたって制服姿で集団参拝を行い続けた。だがその後22年から今年を含め4年連続で参拝は見送られた。参拝が組織ぐるみで実質「公的に」行われていたのではないかとの指摘を受けて取りやめたのだろう。

 だがまるでその代わりのように、早朝、この黎明之塔の参拝にやって来る民間人(多くは県外から)が今年もいた。その一行がやってきたのは午前5時30分過ぎ。およそ50人。家族連れもいて小さな子どもの姿もあった。一見、何ということのない観光ツアーご一行様にみえるが、何人かは大きな日の丸の旗と旭日旗を持参していた。戦跡めぐりや追悼の集いがどこも高齢化している中、彼らは総じて若い。

 僕が着いた午前5時過ぎには、黎明之塔の正面にはすでに靖国神社のお札や牛島中将の遺影、辞世の句、供花、お供え物、「感謝」「慰霊」「ありがとうございました」などと手書きされたプラカードが置かれ、さながら「祭壇」のようになっていた。その後、彼らはオカリナ生演奏に合わせて『海行かば』と『ふるさと』を斉唱していた。そして「拝礼!」の掛け声とともに一斉に海の方角に深々と頭を下げていた。人が祈りを捧(ささ)げている姿はどこか他人の介在を許さぬおごそかなものがあるものだ。けれども僕は、正直に記すが、これらの一連の成り行きに、何とも形容しがたい違和感を持たずにはいられなかった。

 沖縄戦の戦没者を慰霊する日の未明に、沖縄戦の司令官を祀る碑の前で「感謝」「ありがとうございました」と意思表示し拝礼する人々。そこで歌われた「海行かば」。その歌詞の意味をわかって歌っているのだろうか。「海に行けば、水死して屍(しかばね)になっても、山に行けば、草に埋もれて朽ちようとも、天皇のおそばで死ねるのならば、決して後悔は致しません」。これが歌詞の内容だ。戦争中、この歌は日本の各所で歌われた。もちろん沖縄においても、鉄血勤皇隊やひめゆり学徒らの間でも。

 悲しくかつ考えさせられる過去の歴史だ。「顕彰」か「非戦」の分岐点と記したのは、こうした事実の検証を踏まえた上で、ひたすら「感謝」「ありがとう」と讃(たた)える行為=「顕彰」と、沖縄戦の悲劇の実相を受け継ぎ戦争を繰り返さない「非戦」を誓う行為との間にある裂け目のことを言っているのだ。

 ちなみに、当日掲げられていた辞世の句については、句の一部が軍中央によって書き換えられていたとの本紙スクープ記事が6月22日に載っていたが、まさか牛島中将再評価となることはないだろうな、と思う。

 この一行の存在を知ったのは四月の本欄で紹介した新田義貴監督の映画『摩文仁』でだった。去年も一行は黎明之塔を訪れていた。僕は実際に自分の目で見てみようと思ったのだ。彼ら彼女らは、日本国内の在日外国人や、特定の少数者に対して、中傷や暴言を繰り返すヘイト団体のような攻撃的な人々とは一見して異なっている。どちらかと言えばソフトで、人にいきなり暴言を吐くようなことはしない。けれども、他の人々の考えは歪(ゆが)んでいて自分たちの行為こそが正しいと信じている点で、ある意味で言えば、とてつもなく怖いことが起きているように思うのだ。

 折しも7月、糸満の平和祈念公園で開かれるコンサートで主催者が「沖縄の方たちが日本本土を守ってくれた」「これは喜び」などと発言して批判が起こり、いったん決まっていた沖縄県の後援が取り消されるという出来事があったばかりだ。どこかがねじれていないか。歴史的事実のまともな伝承が弱っていることから、このようなねじれが生じているのではないか。事実を突き付けること。このことこそがメディア、ひいてはジャーナリズムの役割だと、今こそ強く思う。

 さて、この『ワジワジー通信』、今回が最終回になります。長年連載におつき合いいただき本当にありがとうございました。記事の切り抜きが高江や辺野古の「現場」に貼ってあったり、那覇の酒場に貼られていたり…。本紙とははるか昔からご縁があり「沖縄ニューヨーク徒然草」(08~10年)、「沖縄ワジワジー通信」(11~13年)「新ワジワジー通信」(15~18年)そしてこの連載と、都合17年間にわたりお世話になりました。またいつかどこかでお目にかかる日を楽しみにしております。

 沖縄とのご縁は一生続きますので。連載打ち止めを記念して、8月18日から連続5日間、那覇の桜坂劇場で「ワジワジー市民講座」が開催される予定です。詳細は劇場のHPで。ぜひ劇場でお会いしましょうね。(ジャーナリスト)=おわり

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