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1970年大阪万博の中核施設「お祭り広場」の構想をまとめた準備報告書が初めて英訳され、出版された。
報告書は「レッドブック」の通称で知られるが、これまで歴史研究ではほとんど注目されてこなかった。内容からは、コンピューター科学者や音楽家、SF作家、建築家らが分野の垣根を超えて参画した意欲的な共同プロジェクトだったことが分かる。技術と芸術、娯楽を融合させ、より良い社会の実現を目指そうとしていた当時の日本の試みを知る手掛かりとなっている。
英訳版は、IE大学(スペイン)の建築学修士課程ディレクターで建築史・建築理論家のマルセラ・アラグエス氏がまとめた『The Red Book: Architecture, Collaboration and the Osaka Expo ’70』。アラグエス氏は、異分野の連携や技術革新、公共空間の設計を巡る同計画の理念は、現在でも重要な示唆を与えていると指摘している。
アジア初の万国博覧会
1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)は、戦後復興を遂げた日本の姿を世界に示す国家的事業だった。
会期中の来場者数は6400万人を超え、当時の日本の総人口の半数以上に相当した。この記録は約40年にわたり、万国博覧会として世界最多の入場者数を維持した。
会場の中心に設けられたのが、大屋根に覆われた巨大施設「お祭り広場」である。昭和天皇が開会を宣言したほか、万博を代表する催しや各種イベントの多くがここで開催された。
お祭り広場は、建築家の丹下健三氏と磯崎新氏が設計を担当し、国際交流と技術進歩を象徴する空間として構想された。
当時、世界最大級のスペースフレーム構造だった巨大な「大屋根」は、日本の高度な建築・土木技術を示すとともに、多くの来場者が集う未来志向の公共空間を実現した。
広場の中央では、大屋根を突き抜けるように岡本太郎氏の「太陽の塔」がそびえ立ち、大阪万博を象徴する存在となった。
丹下氏と磯崎氏の名前が広く知られているが、アラグエス氏の著書によると、この計画には20人を超える研究者や芸術家、技術者らが参加し、多様な専門分野の知見を結集して構想が練り上げられた。
来場者に応答する「環境」
お祭り広場の計画で最も意欲的な構想の一つが、「応答的環境(レスポンシブ・エンバイロメント)」の実現だった。会場を単なる催事の舞台とするのではなく、来場者の動きや行動に反応する空間を目指したのである。
現在では、来場者と双方向にやり取りする展示やイベント空間は珍しくない。しかし、1970年当時、この発想はまだ実験的な試みだった。設計者たちは、人の流れを感知し、光や音、水、さらには機械の動きをリアルタイムで変化させる広場を構想していた。
報告書には、ロボットやコンピューター制御による照明・噴水設備に加え、来場者の活動状況に応じて広場全体を統括する中枢として「人工の脳」を設ける計画が記されている。
ロボットは3台の設置が計画されたが、実際に製作されたのは2台で、完成した機体も当初案とは大きく異なっていた。また、広場の「人工の脳」として機能するコンピューターシステムも開発されたものの、制御対象となる各設備との通信が技術的な課題から安定せず、十分な性能を発揮できなかった。
このため、可動式の観客席やロボットなど、多くの設備は最終的に人の手による操作に頼らざるを得なかった。
それでもアラグエス氏は、この計画は後に普及する応答型技術やインタラクティブデザインの先駆けとなる発想を示していたと評価する。
同氏は「実際に導入された装置は、その後の応答型環境へと発展していく技術の原型とも言える存在だった」と語る。

自由と制御の両立
アラグエス氏が、お祭り広場でもう一つ注目するのは、「自由」と「制御」のバランスである。
広場は、決められた演目を観賞する場所ではなく、来場者が自由に歩き回れる開放的な空間として設計された。その実現に向け、計画担当者らは日本の夏祭りなどにおける人の流れを分析し、大勢の人々を窮屈さを感じさせることなく誘導する方法を研究した。
報告書では、伝統的な祭りで人々がどのように移動するかを調査し、市街地での人の流れを図式化。その分析結果を、お祭り広場の設計に反映させていたことが分かる。
アラグエス氏は、一見すると自然発生的に見える祭りも、実際には綿密に設計・運営されていると指摘する。人々が自由に行動しているように感じられるのは、秩序が存在しないからではなく、動線をさりげなく導く仕組みが組み込まれているためだという。お祭り広場も同様の考え方に基づき、来場者の行動を管理しながらも、それを意識させない空間づくりを目指していた。
同氏は「空間設計によって人の動きを促したり、システムで人の流れを把握したりと、何らかの形で管理は常に存在する」と説明する。
こうした「誘導」と「自由」の均衡は、現在の公共空間にも受け継がれている。大型商業施設や駅、競技場の入場口などでは、人の流れが自然に感じられるよう設計される一方、利用者の移動経路は巧みに導かれている。
日本の複雑な鉄道網でも、駅員が一人ひとりに進む方向を指示しているわけではない。建築や案内表示、空間設計によって、利用者は目的地へ自然に導かれるよう工夫されている。
忘れられた建築家に光
『レッドブック』が明らかにしたもう一つの成果は、建築家・上田篤氏の役割である。アラグエス氏は、お祭り広場の歴史を語る上で、上田氏の功績は十分に評価されてこなかったと指摘する。
現在も健在の上田氏は、自身のホームページでお祭り広場を代表的な実績の一つとして紹介している。設計の後期段階では磯崎氏とともに計画に携わったが、その貢献はしばしば磯崎氏の高い評価の陰に隠れてきた。
アラグエス氏は「磯崎氏と上田氏のどちらが重要かという序列をつけるべきではない」と語る。一方で、磯崎氏が大阪万博の前後を通じ、日本建築界に極めて大きな影響を与えたことにも言及している。
大規模な建築プロジェクトは、一人の建築家だけで成し遂げられるものではない。建築やデザイン、映画などの分野でも、功績が著名な人物に集中し、チーム全体の貢献が見過ごされがちだという課題は今なお残されている。

時代を先取りした構想
1970年当時の技術では、『レッドブック』に描かれた構想を完全に実現することはできなかった。しかしアラグエス氏は、その挑戦そのものが、後の応答型デザインやインタラクティブ技術の発展につながる礎となったと評価する。
大阪万博は、技術への大きな期待に満ちた時代を象徴する催しでもあった。技術革新が人々の日常生活をどのように変え得るのかを、6400万人を超える来場者に示したのである。当時はカラーテレビが各家庭に普及し始め、コンピューターやロボット、宇宙開発が人々の未来像を大きく変えつつあった時代だった。
開催から半世紀以上が過ぎ、人工知能(AI)をはじめとする新たな技術が再び社会を大きく変えようとしている。大阪万博は、技術革新は豊かな想像力から生まれ、その発展には異なる分野の知見を結び付ける協働が欠かせないことを、今なお示し続けている。
筆者:ダニエル・マニング(JAPAN Forward記者)
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