写真:shutterstock

日本統治時代の1917年に完成し2016年に駅舎としての役割を終えた台中駅旧駅舎を保存する施設、台中駅鉄道(臺中驛鐵道)文化園区

国際ブッカー賞は、英語に翻訳され英国・アイルランドで出版された海外文学を対象とする、世界で最も権威ある文学賞の一つ。 過去には韓国のノーベル賞作家ハン・ガン氏も受賞した同賞を、今年は台湾の楊双子氏による『台湾漫遊鉄道のふたり』が受賞した。文学賞にしろ映画賞にしろ、世界はいまジェンダー、植民地主義(=帝国主義)、戦争と暴力などに最も鋭く反応する。権力の勾配がある中で、対等の関係とは、友情とは、尊厳とは? 楊氏の街場のグルメ、女たちのパラダイスが現出する直木賞受賞作も併せてご紹介。

『台湾漫遊鉄道のふたり』

著者:楊双子

訳者:三浦裕子

出版社:中央公論新社

発売日:2023年4月20日

価格:2,530円(税込)

【概要】

炒米粉、魯肉飯、冬瓜茶……あなたとなら何十杯でも——。結婚から逃げる日本人作家・千鶴子は、台湾人通訳・千鶴と“心の傷”を連れ、1938年、台湾縦貫鉄道の旅に出る。台湾グルメ×女たち×鉄道小説!

“見てやろう食ってやろう” 台湾を巡る食のロードムービー

日本女性の千鶴子と、台湾女性である千鶴の「台湾を巡る食のロードムービー」である。あっさり「グルメ旅」と書く気になれないのは、千鶴子がグルメ(美食家)というよりも、鉄の胃袋をもったグルマン(大食漢)だから。千鶴子が持っているのは“見てやろう食ってやろう”の冒険精神である。

青山千鶴子は物書きである。アイヌの北海道や琉球文化の沖縄への短い旅を経験した後、今度は台湾に行きたいと思う。どうやら土地が磁場となった固有の文化に引かれるらしい。短期ではその土地を深く知ることはできない。行くなら最低でも半年は滞在したい。が、自力で行くには手元不如意。

お得な話もあった。軍の南進政策に呼応し、「南洋を舞台にした連載小説をお書きいただければ」と、分厚い札束を持ってやってくる編集者もいた。しかし千鶴子は「日の丸帝国を宣揚する作品ということでしたら、私は力不足。ご期待に沿うような面白いものは書けませんわ」と、(こんな場合は)おしとやかに断る。

そんな折、台湾総督府台中州庁から招待状が届く。千鶴子の半自伝的小説『青春記』を原作にした映画が台湾でも上映され、それに感激した現地の婦人団体が千鶴子の巡回講演を企画。台中州庁台中市役所が後援する形で、交通費も滞在費も全部面倒を見るという。

渡りに船。こうして訪台の夢が叶った千鶴子は、門司港から船に乗って台湾の北の玄関口基隆(きいるん)に降り立つ。一人旅の気分を味わおうと出迎えは断った、基隆から汽車で台北へ向かい、1泊して翌日南に向かう列車に乗り込む。

台中まで急行でわずか3時間半である。この間に千鶴子は、桃園駅で駅弁を(内地の駅弁とほとんど変わらないことを確認して興味を失う)、新竹駅では初めて食べるビーフンの炒めものを、竹南駅ではアヒルの塩ゆで卵5個と塩むすび2つを買ってペロリと平らげる。恐るべし、千鶴子の妖怪胃袋。

台中駅に到着すると千鶴子はさっそく、土地の人々が行き交う市場へ向かう。降り注ぐ金色の陽光、青々と葉を繁らせた椰子の樹々。千鶴子は南国の豊かな色彩にすっかり魅了され、正体不明の飲み物や食べ物にも、むらむらと好奇心を燃やす。

果物屋台の少年の売り子と通じない言葉で難儀していたとき、本島人の少女が「何かお困りですか」と日本語で声をかけてくれる(注/当時、日本人を「内地人」、台湾人を「本島人」と呼んだ)。身長165㎝と、当時としては大柄な千鶴子の視線のかなり下の方で、少女はすべすべ頬の両側に、えくぼを作っていた。

その少女と再会したのは1週間後のこと。極上の鰻重や内地人が作る月見うどんなど、現地のものから隔離されたような“もてなし”に、千鶴子が恨みの悲鳴を上げていた頃だった。

少女は千鶴子がお世話になっている薩摩出身の夫人の邸宅の居間に座っていた。千鶴子に会うなり開口一番、「何かお困りですか?」と市場で会ったときのセリフを茶目っけたっぷりに繰り返してみせる。ブスブスと黒煙を上げていた千鶴子の不満を察した薩摩夫人が、本島人女性の通訳兼ガイドを手配したのだった。

台中市役所の職員美島がのらりくらりと遠ざけた現地の食べ物を、千鶴は明日市場で買ってくると約束する。例えば本島人しか新鮮さを見分けられない生のシジミの醤油漬け(割り込みますが、私も大大大好物!)。千鶴子は喜びのあまり、頭から湯気が立つような勢いで叫ぶ。

「あああああ! あなたはもしかして天使なの?」。千鶴子と千鶴の旅の始まりだった。

水面下で息を潜めていたものが、時に浮上して波打つ複雑な感情の旅へ

台湾は、大日本帝国が日清戦争に勝利したことで1895年に日本初の植民地になった。言語は統合と管理のための重要装置。大日本帝国は国語(日本語)教育など同化政策を推し進め、本書の1938年の時点では統治が始まって、はや43年が経っている(あと7年で50年間の統治が終わることはまだ誰も知らない)。

大正6(1917)年生まれで21~22歳の歳の王千鶴も、4歳上で25~26歳の青山千鶴子も、大日本帝国の植民地である台湾しか知らない。そして同じ「日本人」だ。

にも関わらず、千鶴子には統治する側の視線を無意識のうちに内面化した上から目線がある。その一方で被支配者の側に追いやられ、支配側の視線にさられてきた千鶴は、同化におもねらない魂を隠し持っている。同化におもねらないというのは、自らのルーツや文化を卑下したり、捨てたりしないということだ。

千鶴子は善意の人だ。講演先の千鶴の母校で、彼女が学校職員に命令口調でなにか言われたときは怒り狂い、講演後の食事の招待もキャンセルする。農林学校でそのとき味わった不愉快さを話すと、書記は戸惑いながらも「本島人の女通訳など、雑役婦のようなものではありませんか」と言い放ち、千鶴子の頭はまっ白になる。

打てば響く勘のよさで、歴史、地理、民俗文化から食文化まで、なんでもござれの博識な千鶴は、千鶴子の大のお気に入りになる。千鶴子が「友達になりたい」と言っても、千鶴は承諾も拒絶もしない。

能楽の若くて美しい女性の面「小面(こおもて)」のような顔をして「わかりました」と微笑むばかり。結婚なんかやめて長崎にいらっしゃいよと言ったときも千鶴は能面になった。日本の着物をプレゼントしたいと言ったときも、千鶴は能面を被った。

「千鶴さん」から「千鶴ちゃん」、「青山先生」から「青山さん」と、互いの呼び方は親密さを増しても、美味しん坊の旅に見えた女ふたりの旅は、礼儀から水面下で息を潜めていたものが、時に浮上して波打つ複雑な感情の旅になっていくのだ。

終戦から81年。同時代を同地で生きた母と辿った植民地の光と影

さて、ここからは私事を書くことをお許しいただきたい。私は本書を、施設にいる102歳の母のベッドの横で読み始めた。母は基隆生まれ、台南と台中育ちである。敗戦で引き揚げるまで、母は小娘のタイピストとして台中州庁で働いていた。

千鶴子と千鶴が南の高雄に行くシーンがあったので、母に尋ねた。「高雄まで汽車でどのくらいの時間がかかった?」母は「タ・カ・オ?」とぼんやり呟く。「そう高雄。海軍のお兄さんを訪ねて、台中から高雄の海軍基地に行ってたんでしょう?」

高雄という地名がはっきりとした輪郭を持ったとたん、母の目に精気が戻る。息を吹き返した精気はそれこそ妖怪じみていて、私は驚く。

いい機会だった。千鶴子は台中で日本家屋を借り、通いの千鶴が千鶴子所望の料理を作ったり、時には千鶴子が千鶴を、柳川鍋やすき焼きなど日本料理でもてなしたりするのだが、本書の中に登場するそんなディテールを母に投げかけてみる。

「からすみ食べてた?」「うん、ご飯のおかずに焼いて食べてた。家族みんな大好きだった」(なんと贅沢な)「住んでるところは日本家屋だった?」「そう、周りは日本人ばかりだった」(台湾人との交流がなかったなんて、もったいない)

「台湾バナナ好きだったよね?」「近所に台湾人がやってるお店があって、そこで買ってたのよ」(市場じゃないんだ……)「お月見のときは団子を食べた?」「母ちゃんがお琴を弾くのを月が見える縁側に寝転んで聞いてた」(ぎょっ。台湾にお琴を持っていってたんかい)。

記憶は芋づる式だ。家の前に広大な農業試験場のような施設があり、その風景を見て詠んだ歌まで飛び出した。「小屋陰に/かますなどにて/北風(きた)よけし/稲穂の緑/鮮やかに萌ゆ」。「鮮やか」と「萌ゆ」の同義語でいっきに駄歌に落ちる残念感はあるものの、「かます」がわからない。

適当な嘘の多いAI君だが今回は賢かった。「かます」はムシロやゴザを袋状にしたものだという。「叺」と書く。穀物や肥料、塩や石炭などを入れて運搬したり保管したりするのに使われた。素材は「黄麻(おうま)」。

私は「あ!」と声が出る。本書の中に黄麻の若葉を煮て作るスープがあると聞いた千鶴子が、千鶴と一緒に台所で作ってみるシーンがあるのだ。千鶴子が「貧しい人の料理」と決めつけた、夏の体を冷やす苦いスープ。その作業工程は大変な重労働で千鶴子はヘトヘトになる。

私は子供の頃、鰺を焼いて干ぼかすために、七輪の炭火を熾すところから始める冷汁作りを手伝わされるのが、面倒で仕方なかったことを思い出す。貧しい家の家庭料理は、どこでも手がかかるものなのだろうか?

台中州庁の母の同僚に台湾人の女性がいた。母はある日その女性に聞かれた。「同じように働いているのに、どうして私の給料はあなた達より低いの」。困りきって「さぁ」としか答えられなかったと言う(情けない)。

その母は帰国後に父と出会って結婚するのだが、九州の男尊女卑バリバリの父の親族達から「日本の躾がなっていない植民地主義者の娘」と侮蔑される。台湾で生まれ育ったことを、母はよそであまり言いたがらなかった。

『台湾漫遊鉄道のふたり』は、青山千鶴子が昭和29(1954)年に書いたものが発掘されたというポストモダンな仕掛けのもと、台湾で出版された。信じた読者が多く、炎上したという。

私も母も、本書で旅をした。植民地の光と影を、身をもって知った。ありがとうとお礼を言いたい。

Share.