Osaka Metro谷町線は、大日駅と八尾南駅28.1kmを結ぶ地下鉄路線です。このうち、野江内代~守口間は、完全に京阪本線と並走します。SNSでは「なぜ、地下鉄は京阪と並走しているのだろう」という投稿も見かけます。そこで、谷町線東梅田~大日間がどのような経緯で建設されたのか、調べてみました。
守口から梅田へ直行するルート

国道1号線地下にあるOsaka Metro守口駅
まずは復習がてら、谷町線東梅田~大日間のルートを確認します。阪急百貨店(阪急うめだ本店)の南に位置する東梅田駅から、関目高殿駅まで都島通の地下を走り、中崎町駅、天神橋筋六丁目駅(天六駅)へと向かいます。
天六駅からは進路を北東から東方向に変え、野江内代駅へ。野江内代駅から守口駅までは京阪線と並走しますが、隣駅の関目高殿駅から国道1号線地下を走ります。守口駅からOsaka Metroはそのまま北東の守口市の大日駅へ。一方、京阪線は進路を変え、門真市へ向かいます。Osaka Metro谷町線と京阪本線は部分的に並走しますが、東梅田~大日間で両線の接続駅はありません。
急増する守口市の人口に対応するための新路線
京阪本線は戦前から存在していたのに対し、谷町線東梅田~大日間は戦後生まれの路線です。1974年に東梅田~都島間が開業し、1977年に守口駅まで延長。1983年に大日駅まで路線が延び、東梅田~大日間が全通しました。
都島から北東部への延伸の議論が本格化したきっかけは1971年の運輸省(当時)の答申でした。答申では、都島から守口方面への早期建設が提言されました。
この答申の背景には、人口ドーナツ化現象が挙げられます。当時、大阪市内中心部の人口減少に対し、周辺部は急増することに。その結果、周辺部から中心部への通勤客が増えることになりました。ちなみに、守口市の人口が最も多かった時期は1970年頃であり、18万人を超えていました。参考までに、現在の人口は約14万人です。
また、1969年に最後まで残った大阪市電のひとつ、阪急東口~守口間が廃止されたことも大きいです。市電は現在の谷町線と同じく国道1号線を走っていました。市電廃止後はバス輸送になり、地下鉄を望む声が大きくなりました。
実は京阪守口市駅に谷町線が乗り入れる予定だった?

京阪の守口市駅。ここに谷町線が乗り入れる予定だった
また、車庫建設も谷町線のルートに、大きな影響を与えました。1970年代、谷町線は守口方面への延伸と同時に、天王寺から八尾方面への路線延長も計画されていました。当時の営業区間である東梅田~天王寺間であれば、車両基地は中央線との共用で対応可能でした。
しかし、谷町線が全通すると既存の施設では対応不可のため、新車庫の建設が求められることに。その結果、守口市からの協力を得る形で、大日に新車庫を建設しました。現在、谷町線の車庫(検車場)は大日と八尾南にあります。
実のところ、守口駅は京阪守口市駅に接続する形で建設される予定でした。ですが、大日検車場の建設に伴い、国道1号線をそのまま直進するルートに改められました。
このように、東梅田~大日間の建設にあたっては、ドーナツ化現象と車庫建設が大きな影響を与えたことがわかりました。それにしても、もし谷町線が京阪守口市駅に乗り入れていたら、谷町線と京阪はどのような関係になっていたのでしょうか。
