私の海外留学見聞録 52〜2度の米国留学が教えてくれたこと〜安冨 淳 (やすとみ・じゅん)
独立行政法人労働者健康安全機構 千葉労災病院 消化器外科・部長
留学先: 米国カリフォルニア大学サンディエゴ校(1996年〜98年)

高校2年の春、私は父をがんで亡くしました。海外でダム建設に従事していた父は、病気になったため帰国した半年後、あっけなく旅立ってしまいました。喪失感の中で迎えた夏、数人の同級生とともに職員室に呼び出され、担任の先生から「AFS交換留学生の選考試験があります。受験したい人は申し出てください」と告げられました。当時、私が通う高校があった埼玉県からの合格者は毎年1〜2人程度で、私の高校からも1〜2年に1人合格できるかどうかという狭き門だと聞きましたが、それでも私は強く惹かれました。

将来は大学の経済学部を経て商社マンになりたいと考えていたため、英語ができれば武器になる──そんな単純な理由と海外留学への漠然とした憧れがありました。今思えば、この直感がその後の人生を大きく変える伏線になっていたのだと思います。

母は当然反対し、三者面談で担任に相談した際、「大丈夫、受かりませんよ」と言われたと後から聞きました。ところが、まさかの合格です。しかもその年は我が高校から3人が選ばれ、皆渡米することになったのです。ちなみにその仲間とは今でも親友として、付き合いが続いています。

こうして私はAFS28期生として、オレゴン州の田舎町に1年間留学することになりました。ホストファミリーには恵まれたものの、同い年のホストブラザーとはたびたび喧嘩していました。それでも多くの友人に囲まれ、ちょうど全米で大ヒットしていた『Back to the Future』や『E.T.』のワンシーンのような、映画の中に入り込んだような1年でした。授業も自由選択制で、日本の高校生には全く想像もつかないような楽しい高校生活でした。町で唯一の日本人だった私は、英語がほとんど話せなかったにもかかわらず、周囲の助けもあり、気づけば自然に環境に溶け込んでいました。

帰国後、私は思いがけず医師の道を志すようになりました。1年間の浪人を経て金沢大学医学部に進学し、卒業後は千葉大学第一外科に入局しました。関連病院での研修を経て第一研究室に入り、幸田圭史先生(元・帝京大学ちば総合医療センター外科教授)からがん免疫研究の手ほどきを受けます。大学院に進む道もありましたが、私はあくまで外科医でありたいと思っていました。

同時に、臨床を離れるのであれば、いっそ海外で生活してみたい──そんな思いもありました。当時行っていた養子免疫療法の手伝いをしながら指導していただき、わずかばかりの細胞培養や基礎実験の経験しかなかったのですが、高校での留学経験のおかげもあって、幸田先生に背中を押していただき、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)へ、2度目の米国留学の機会を与えていただきました。

家族に囲まれながら研究に勤しむ日々

1996年、妻と2人、飼い犬のゴールデンレトリーバーと一緒にサンディエゴに渡りました。ペット可のアパートはそう簡単には見つからないだろうと思っていました。ところがUCSDに籍があったおかげで大学のスタッフや研究者用のアパート「La Jolla Del Sol」に無事愛犬と一緒に住めることになりました。海岸沿いにある有名な高級リゾート地La Jollaからはやや離れてはいましたが、UCSDにほど近いUTC(University Town Center)と呼ばれるエリアにあり、治安も良くきれいで、アパートにはテニスコートやプールが備わっていました。

日本からはもちろん、世界中からの留学生や研究者と、数多くの素敵な出会いがありました。 毎日の散歩が家族のルーティーンで、妻が1人で犬を連れて公園に行くことも多く、ドッグランでは飼い主仲間がたくさんできました。異国の地でのこうした小さな交流が、私たち家族を支えてくれたのです。それから数カ月後、妻は双子を妊娠します。妊娠中に妻の母が急逝し一時帰国するという辛い出来事もありましたが、翌年5月、2900gと2600gの健康な双子の娘が誕生しました。体の小さな妻がよくぞここまで育ててくれたと、今でも頭が上がりません。

研究の方はというと、ボスのMark Glassyはヒト型モノクローナル抗体(ヒト・ヒトハイブリドーマ)研究の権威として著名な研究者で、当時、 カナダに資本を持つ製薬会社が立ち上げた、がんの免疫治療に関する研究を行うラボの代表になっていました。UCSDからは独立した存在でしたが、 研究者として留学するにあたり何かと好都合だろうということで、ボスの知り合いのつてで、ラボと同時にUCSDにも籍だけは置かせてもらっていました。実際には、UCSDや自宅のアパートから車で20分ほどのラボに日々通っていました。

そこで働く研究者はボスと自分を含めて7人で、 兄貴分のような先輩が、分子生物学や細胞培養などのテクニックを熱心に教えてくれました。日本を出発する前に留学経験のある先輩医師から「たいていのラボには必ず1人か2人世話好きな人がいるから、そういう人に最初はしっかりと色々なことを教わるのが重要だよ」とは聞いていたので、全くその通りだなと思いながら、日々多くのことを学ばせていただきました。

▲留学先で生まれた2人の子供は、愛犬と仲良く過ごしともに育っていった興味ある実験を見つけ、充実した研究生活

ある日、我々のラボが保有していた、ヒト型モノクローナル抗体が認識するがん関連抗原のアミノ酸配列や遺伝子クローニングにつながる実験について、興味津々にしていると、先輩が「Junの小さな目がこんなに大きくなって輝いていたよ」と気付いてくれ、その日から自分の博士論文につながる実験がいよいよ始まることになりました。この、がん関連抗原のクローニングに関する仕事と、現在の分子標的薬の源流になっていたかもしれないヒト型モノクローナル抗体の大量生産に関する仕事の2本立てで、日々忙しく過ごしていました。実験も日々の生活もとても快適で楽しい留学生活を送っていましたが、やはり研究というものはなかなかたやすいものではなく、結局はほとんどが夢のまま終わってしまいました。

順調とは言えないまでも充実した日々でしたが、ある朝、突然カナダ本社の人間が現れ、「本日でラボは閉鎖します。すべてを置いて出ていくように」と告げられました。映画のような展開でしたが、現実です。幸い、幸田先生と本社社長につながりがあり、博士論文に関わる研究は継続を認めてもらえました。帰国までの数カ月はUCSDのPao C. Chauの下で実験を続けることができ、厳しい状況の中でも自分は恵まれていました。支えてくれた人々への感謝は尽きません。

2度の米国留学は、私の人生に計り知れない影響を与えてくれました。学術的な成果は決して誇れるものではありませんが、恩師や仲間、家族との出会いは何物にも代えがたい財産です。そして何より、サンディエゴで双子の娘が誕生したことが、私にとって最大の出来事です。この素晴らしい幸福をもたらしてくれた上、今も支え続けてくれている妻には、こう伝えたいと思います。
“ I Can Never Thank You Enough! ”

▲留学を終えてから20年後、再び家族で思い出の地を訪れた

 

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