賤ヶ岳(滋賀県長浜市) 賤ヶ岳から北に臨む余呉湖。主に湖を囲む山々に布陣する秀吉方に、左奥から勝家方が攻めてきた(滋賀県長浜市で)賤ヶ岳から北に臨む余呉湖。主に湖を囲む山々に布陣する秀吉方に、左奥から勝家方が攻めてきた(滋賀県長浜市で)

 麓からリフトに揺られて6分。さらに山道を約300メートル登ると、賤ヶ岳(421メートル)の山頂に到着した。雄大な琵琶湖とともに、水面が鏡のように周囲を映すことから「鏡湖」と呼ばれる余呉湖(周囲6・4キロ)が一望でき、琵琶湖八景の一つにも数えられている。余呉湖は近年、南米ボリビアのウユニ塩湖にちなんで〈日本のウユニ〉とSNSなどで話題となっているが、一帯は羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の舞台でもある。

 滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館などによると、1582年、本能寺の変直後の清洲会議で、織田信長の後継は秀吉が推す信長の孫・三法師に決まった。勝家はその結果を巡り、翌年の3月、越前国北庄(福井市)から進軍。県境にほど近い賤ヶ岳一帯の山々でにらみ合った。

 4月には、勝家方の織田信孝が岐阜で挙兵し、秀吉は美濃国大垣(岐阜県)に転戦。手薄となった秀吉軍を勝家方が急襲し、とりでの一つが陥落する。これを聞いた秀吉は52キロを5時間で舞い戻る「美濃大返し」を敢行。挟み撃ちにあった勝家軍は崩れ、北庄に退却。勝家は妻のお市の方とともに自害する。一方、秀吉は天下人に駆け上り、2年後には関白に就任。その翌年には豊臣を名乗った。

 現在、山頂は公園の広場のようにのどかだが、戦跡碑や、福島正則や加藤清正ら活躍した若武者「七本
槍(やり)
」の記念碑が激しい戦いをしのばせる。

 「美濃から舞い戻った秀吉は一帯が眼下に収まるこの賤ヶ岳から、指揮を執ったと言われています」と、奥びわ湖観光ボランティアガイド協会会長の山内昌達さん(72)。福井との県境側には余呉湖を囲むようにとりでが築かれた山々が見渡せた。「あの山から攻めてきた」「このとりでが落とされた」――。山内さんの説明を聞きながら、秀吉が見たかもしれない景色を想像すると、胸が高鳴った。

視界を南に転じると、山が湖面にせり出し、その先に竹生島が浮かんだ琵琶湖が広がる(滋賀県長浜市で)視界を南に転じると、山が湖面にせり出し、その先に竹生島が浮かんだ琵琶湖が広がる(滋賀県長浜市で)

 南側に向かうと、竹生島の浮かぶ琵琶湖や伊吹山、小谷山などのパノラマビューが広がる。「この絶景を多くの人に楽しんでほしい」と山内さんの一推しだ。同協会のガイドは、霧や雨天を除き、リフトの動く12月まで山頂に常駐していて、一帯の眺望を無料で解説してくれる。

 リフト乗り場まではJR木ノ本駅からレンタサイクルが利用できるほか、土日祝日とお盆にはシャトルバスが運行する。ハイキングコースも充実していて、乗り場付近から山頂までのコース(1・5キロ)や、JR余呉駅で降りて駅前からすぐ登山を楽しめるルート(4キロ)などがある。歴史と初夏の風を感じに、登ってみてはいかが。(生田ちひろ)

高さ約6メートルの地蔵大銅像…北国街道の宿場町として栄えた界隈木之本地蔵院の地蔵大銅像木之本地蔵院の地蔵大銅像

 木之本地蔵院(長浜市木之本町)の本尊は日本三大地蔵の一つとされ、境内には、本尊を写した高さ約6メートルの地蔵大銅像が立つ。足元には、参拝者が治癒を願って置いていった陶製の「身代わり
蛙(がえる)
」が無数に並ぶ。

 秘仏である本尊は、天武天皇の治世に難波(大阪市)に流れ着いたと伝わる。薬師寺の僧侶が安置場所を探して行脚し、現在の寺がある場所にあった柳の木の下に置くと動かなくなったといい、「木之本」の由来にもなった。

 門前町は、北陸と近畿を結ぶ北国街道の宿場町としても栄えた。今も銘酒「七本
鎗(やり)
」を醸す酒蔵などが往時の風情を色濃く残す。たくあんの千切りをマヨネーズであえてコッペパンに挟んだ「サラダパン」の製造販売店もある。

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