台湾から日本へ渡る球児たち



「今の私があるのは、日本での高校3年間の経験が大きい」

台湾のプロ野球チーム「統一ライオンズ」で外野を守る、陳傑憲(ちん・けつけん)選手(31)の言葉です。

2024年、野球の国際大会「プレミア12」に出場した台湾代表は、決勝で日本代表を破って初優勝しました。

台湾代表のキャプテンとしてチームを初優勝に導いた陳選手は、かつて日本の高校に留学して野球を学びました。

大谷翔平選手の活躍の影響もあり、台湾から日本の高校に留学を希望する球児が増えています。

なぜ日本の野球を学ぼうと台湾から日本へ渡るのか。

(台北支局カメラマン 小柳一洋)



台湾を優勝に導く歓喜のホームラン

2024年11月に行われた国際大会「プレミア12」では台湾代表が決勝で日本代表を破り、初優勝しました。その決勝の舞台でスリーランホームランを放つなど、3安打3打点と活躍したのが台湾代表のキャプテン陳選手です。

5回表、日本代表の先発、戸郷翔征投手のストレートをフルスイング、ライトスタンドに飛び込んだこのホームランは台湾の初優勝を決定づける一打となり、陳選手は大会のMVP=最優秀選手に選ばれました。

台湾では一躍ヒーローに

優勝後に台北で行われた祝賀パレードには、約5万人の市民が詰めかけ、喜びを分かち合いました。


台湾の人たちは陳選手に親しみを込めて、台湾でキャプテンを意味する「隊長」という愛称で呼び、一躍人気の選手となりました。

陳選手ら台湾代表は総統府にも招かれ、野球好きとして知られる頼清徳総統は「あなたたちは台湾の光です。台湾には半導体だけでなく、野球もあることを国際社会に知らせてくれました」と述べて、その偉業をたたえました。


「プレミア12」では、大会を通じて打率6割2分5厘と驚異的な結果を残した陳選手ですが、チームとしては1次リーグ、2次リーグともに日本に敗れていました。

そんな中、3度目の対決となった決勝では日本を破っての優勝。その裏では陳選手はプレーだけでなく、リーダーシップも発揮していました。

どんな状況に置かれてもチームを鼓舞し続け、最後まであきらめない姿は、台湾の多くの人を魅了しました。そんな陳選手の野球に対する姿勢は、日本の高校での経験が大きいといいます。

16歳で日本へ、陳傑憲選手の原点

台湾南部の高雄出身の陳選手は小学生の年代別代表に選ばれ、中学校時代はチームの中心選手として台湾全土の大会で優勝するなど、走攻守そろった選手として台湾でも知られる存在でした。

将来を嘱望される中、所属する地元のチームのコーチをしていた父の勧めもあり、16歳で親元を離れ、2010年に日本の岡山県の高校に留学しました。

当時の野球日本代表は、イチロー選手や松坂大輔投手らの活躍で2009年のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックで連覇を達成するなど、台湾の球児にとっても憧れの存在だったのです。

日本で学んだ野球に対する姿勢

「“あいうえお”すら分からなかった」――陳選手が日本に来た当時を振り返った言葉です。

高校に入学し、待っていたのは言葉も通じない環境と、想像以上に厳しい練習でした。

当初はホームシックになり、何度も台湾に帰りたいと思ったと話します。

陳傑憲選手
「毎日が悔しさの連続でした。技術的な壁だけでなく、意思疎通もままなりませんでした」


日本と台湾の野球の違いにも戸惑いました。

当時の台湾の少年野球は細かな戦術は重要視されておらず、日本では投手の配球ごとに守備のポジションを変えるなどサインプレーや考える野球に慣れるのに苦労したというのです。

精神的に未熟なところもありました。

陳選手にとって最も印象深い経験は、高校1年の夏の県予選を前にした練習試合でのことでした。

三振の判定に不満な態度をとったことで、途中でベンチに下げられます。陳選手の行動は、対戦相手への礼儀や謙虚な気持ちが欠けているうえに、チームの雰囲気を悪くすると判断されたのでした。

陳傑憲選手
「最初はなぜ怒られたのか分かりませんでした。日本のチームメートたちは、ミスをしても声をかけ合って励まし合っていました。その姿に、自分の態度の未熟さを思い知らされました」

このことをきっかけに、陳選手の野球に取り組む姿勢が大きく変わりました。

声を出すこと、仲間と励まし合うこと、チームのために考えて行動するようになっていったのです。

当時の成長を見守った野球部顧問は

陳選手の1年と3年の担任で、寮生活もサポートしていた野球部顧問(当時)の川上聖史さんです。

入学当初は感情的になりやすく、不満があるとすぐに顔に出る陳選手が、だんだんとチームのために献身的になっていく姿を、いまでもはっきりと覚えています。

川上聖史さん
「彼が上級生になった時に、ちょっと微妙な判定でも、『次行こうよ、次頑張ろう、前向きに切り替えて』などと声かけをすごいよくしてくれていました」

好きな言葉は「やればできる」

そんな陳選手の心に、今も深く刻まれている言葉があります。

それは、校内のあらゆる所に掲げられていた「やればできる」というものです。

「やればできる」、この言葉から逃げずに挑戦することの大切さを学びました。

陳傑憲選手
「最初は単純な言葉だと思っていました。でも、何事もやりきることでしか結果は得られません。この言葉の本当の意味を理解するのに、3年かかりました。ただ考えているだけでは、何も変わらない。とにかくやってみるというこの気持ちが、日本の野球には根付いていると思います。私にとってすごく大切な言葉になりました」

“最後までやり抜く姿勢”が今の自分を支えてくれている

プレミア12での活躍に代表されるように、陳選手は献身的な声かけ、キャプテンとしてのふるまい、統率力が評価されています。

「やればできる」を信じてどんな状況でもやり抜く姿勢は、高校時代に日本の野球から学んだものです。

陳選手は日本での経験を振り返り、時折懐かしむように話してくれました。

陳傑憲選手
「結果を出しても、謙虚でいなければならない。逆境の時に、自分をどう奮い立たせるかが大事だ。そういった部分を学びました。あの時もし『もう無理だ』と諦めて台湾に帰っていたら、今の私はいなかったでしょう。挫折も失敗もありました。でも、日本で学んだ“最後までやり抜く姿勢”が今の自分を支えてくれています」

この春、台湾から日本の高校へ、台湾球児の挑戦

陳選手のように、日本で野球を学びたいと、台湾から日本へ渡る球児が増えています。

台湾北部の新北出身のチェン・イーカイさん(16)もその1人です。

中学では、キャプテンでエースとして台湾全土の大会でベスト16に進出。大リーグ・ドジャースの大谷翔平選手のような、投打の二刀流の選手を目指しています。

憧れは大谷翔平選手、二刀流を夢見て

台湾のチェンさんの自宅の部屋には、大谷翔平選手が着用したモデルのユニフォームが飾られています。

チェン・イーカイさん
「大谷選手は、世界一の選手なのに、いつも謙虚にふるまっている。そんな姿に憧れています」

大谷選手や陳選手がプレーした日本の野球を学びたいと、この4月から甲子園出場経験がある茨城県の高校に進学することを決めました。

チェン・イーカイさん
「陳選手は、いま日本でプレーしている選手やこれから日本に行く選手にとって、とても大事な存在です。彼の経験は、私たちにとって大きな励みになり、夢に向かって進む力を与えてくれます。陳選手は私たちの大先輩で、素晴らしいお手本です」

強くなるためには努力を惜しまない

チェンさんは日本に行くまでの間、母校の中学校の施設を借りてトレーニングに励んでいます。

スケジュール表にはびっしりと練習メニューが書き込まれていて、その横には、大谷選手が語ったとされる言葉が日本語で書かれています。


日本へ旅立つまで、毎日日本語の勉強を欠かしません。読み書きだけでなく、会話の練習にも力を入れています。

教えるのは、日本の高校の野球部に所属していた台湾の大学生です。

いち早く日本になじめるように、日常会話だけでなく、生活や野球の用語も詳しく教えてもらいます。

チェン・イーカイさん
「練習も大切ですが、日本語の勉強も欠かせません。日本のグラウンドでは言葉が分からないと不利になります。甲子園で熱いプレーがしたい。そのためにできる準備は全部やりたいです」

陳選手の元チームメートが留学をサポート

「彼は本当にセンスがあります。これからもっと成長しますよ」

チェンさんのことをそう語るのは、日本への留学をサポートする、チャオ・スンウェイさん(30)です。

チャオさん自身も、高校時代に高知県の高校で日本の野球を学んだ元球児です。


チャオさんと陳選手は、小学校と中学校の野球のチームメートでした。

中学生のときに台湾全土の大会で優勝した時も一緒のチームで、同じ時期に日本の高校へ留学した仲です。

学校の長期休暇で台湾に戻ったときには、互いに励まし合っていたといいます。

自分が体験した苦労を次世代の糧に

チャオさんは、日本のプロ野球選手になることを目指していましたが、夢は叶いませんでした。

挫折を経験したものの、「野球を通じて、日本と台湾のかけ橋のような存在になりたい」と、新たな目標を立てて得意の日本語に磨きをかけ、日本の大学院で経営学を学びました。


現在は日本と台湾を行き来する起業家として、スポーツイベントの運営を行うかたわら、台湾から日本へ留学を希望する球児の支援を行っています。

自分の経験を次の世代にいかしてほしいという気持ちから、定期的に学校を訪れて、日本語学習の支援や悩みの相談に乗るなど、台湾球児たちの成長を影ながら支えています。

日本で学んだ経験を強みに変えて、自立心を持ってほしい
チャオさんがサポートに関わり、台湾から日本へ渡った球児は、8年間で47人。このうち日本のプロ野球選手になったのは1人、台湾のプロ野球では3人が選手になるという夢をかなえました。

しかし、多くはプロ野球選手にはなれないのも現実です。

チャオさん自身も、夢に描いていたプロ野球選手にはなれませんでしたが、16歳で日本に行く決断は、間違っていなかったと言います。

チャオさんが関わった球児の多くは、日本の高校から日本の大学に進学し、中には留学希望の台湾の子どもたちの日本語教育に関わっている人もいます。チャオさんは、球児たちが野球をきっかけに日本と台湾をつなぐ存在になり、社会で活躍することを期待しています。

チャオ・スンウェイさん
「日本の高校に留学することで日本語や文化も学んで、自立心を持ってほしいです。将来の道がプロ野球選手でも、会社員でも、起業でもいい、自分の力だけで生きていける人間になってほしいです」

日本に留学を希望する後輩たちへ

陳選手から日本に留学を希望する後輩たちへのメッセージです。

陳傑憲選手
「最初は何も分からず、言葉が通じなくて本当に大変でした。気候の違いや文化の違いから戸惑いもありました。練習も想像以上に厳しく、最初はペースについていけず、本当に焦りました。でも、少しずつ言葉を覚え、練習のリズムにも慣れてきて、日本の文化を楽しめるようになりました。日本のチームメートたちはとても意識が高く、みんなで成長しようとする雰囲気がありました。誰かが苦しんでいたら、周りが手を差し伸べ、みんなで支え合う文化がありました。この経験は今の私にも生きています」

取材後記 1歩踏み出すこと “やればできる”がつなぐ未来
“やればできる”

陳傑憲選手が日本で学び、今も胸に刻み続けている言葉です。

努力を惜しまない姿勢は、この春から日本の高校で学ぶチェン・イーカイさんにも受け継がれていきます。

台湾から日本に渡る球児たちにとって、日本の高校での活動は野球の技術だけでなく、文化や価値観を学び、育む、人生経験の場になっているのだと感じました。

(2月20日「ニュースウオッチ9」で放送)

台北支局 カメラマン
小柳一洋
2009年入局
甲府局、大阪局、映像センター、上海支局などを経て現所属

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