第81回全国高校野球選手権大会、沖縄尚学-都城。二回裏、ピンチでマウンドに集まる沖縄尚学の選手たち=1999年8月16日、阪神甲子園球場
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『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で史上初のノンフィクション賞三冠を達成した鈴木忠平さんによるノンフィクション連載「沖縄の英雄 島人たちの甲子園」第15回。1999年夏の甲子園、沖縄尚学は苦しい戦いを強いられていた。エース比嘉公也の投球には明らかな影が落ちていた。それでも投げ続ける公也を、故郷の兄が特別な思いで見つめていた。AERA 2026年8月24日号より。
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「兄たちが野球をしていたので物心ついた時から自然とその輪に入っていました。小学校でも中学校でも、県大会にも出たことがなく、本当にただ遊びの中で野球をやっていたという感じです。自分は野球以外のことは全て右利きなんですが、野球は左が有利だからと(一番上の)兄がアドバイスして左利きにしてくれたという話を耳にしたことがあります。兄たちは2人とも実家から近い高校に行きましたから、僕も同じなのだろうと思っていました。ただ、中学3年生のときに野球部顧問の先生から、陸上大会の200メートルにエントリーする選手がいないから、出場してみなさいと言われて連れていかれたんです。それを金城(きんじょう)先生が見てくださっていたそうです。もし、あの陸上大会に出ていなかったら沖縄尚学には入っていなかったと思います」(比嘉公也〈こうや〉)
兄の視線はテレビの高校野球中継に注がれていた。1999年8月9日、沖縄県名護市の夕刻のことである。お盆前とはいえ、平日の午後にはやらなければならないことが幾つかあった。それでも比嘉将也はあらゆる手を止めて中継画面に釘付けになっていた。末弟の公也が甲子園のマウンドに立っているからであった。
「春の王者、沖縄尚学のエース──」
公也は実況アナウンサーにそう紹介されていた。沖縄に初めて優勝旗をもたらしたエースとして、甲子園の観衆から多くの声援を浴びていることが画面越しにも伝わってきた。将也自身、今でもあの選抜優勝のことを思い返すと、どこか遠い御伽(おとぎ)話のような、夢の中にいたような感覚にとらわれる。あの小さかった公也が、という感慨が胸に押し寄せるのだった。
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