当コラムは例によってネタバレ全開につき読者各位におかれましてはご注意のほどよろしくお願い申し上げたし。

 

 シュルレアリスムとは何かと問われても何も返せる言葉を持たない私だが、サルバドール・ダリがシュルレアリスムを代表する画家だということは知っているし、チーズのようにとろけた時計の絵も知っている(それ以外は知らぬ)。あとはフランスパンを頭に被っていたとか? とにかく奇想天外・奇天烈な人であったらしい。

 その奇天烈な人サルバドール・ダリを演じるのが瀬央ゆりあだ。星組から専科へ移り、外部の舞台に出演するという武者修行を経て分厚くなって雪組へと帰ってきた瀬央ゆりあ、雪組ファンとしては雪組に来てくれてありがとうございますと五体投地したい今日この頃だが、この人がダリをどう演じるのかという期待感ではち切れそうな演目だった。

 

 作・演出は谷貴矢、ライトノベル的な世界観を操ることを得意としつつ近年は『ロックオペラ 赤と黒-Le Rouge et le Noir, l’Opéra Rock-』や『RRR』の演出など快進撃が唸る。

 

 物語は年老いたダリが暮らすプボル城から始まる。

 最愛の妻ガラを亡くしてから筆を置き、事実上の隠居状態にあるダリの元にかつての愛人アマンダがやってくる。置いた絵筆とともに生きる活力さえも失ったかのようなダリにアマンダ(星沢ありさ)はもう一度絵を描いてほしいと願う。

 しかしダリはアマンダの願いを受け入れず、アマンダは「私、諦めが悪いの」と不敵に笑って立ち去る。

 アマンダが帰った後、部屋に激しい稲光が炸裂し、部屋の中に何と大きな卵が出現。その卵から現れたのはナルシス(華世京)と名乗る奇妙な男。ダリの作品で描かれたナルシスであった。

 ダリの作品世界を象徴する超現実世界「ダリランド」からやってきたナルシスは、クイーン・ガラ(輝月ゆうま)によって危機に瀕しているダリランドを造物主であるダリに救ってほしいと懇願し、ダリは超現実の力で若返って「キング・ダリ」としてダリランドに向かう……

 ダリランドでダリを待っていたのは、かつて自分が描いた作品を象徴する十一人の男女たち。それぞれが時計の数字を象徴しているが、ナンバー12を受け持つ者はおらず、12はクイーン・ガラが奪って時間を止めてしまったという。

 死や老いを嫌うガラは時間を止めることでダリランドを支配しようとしていた。

 ダリはダリランドで自分の人生を回想し、生い立ちやガラとの出会い、愛と成功の日々を振り返る……

 

 回想と超現実の場面が入り乱れ、賑やかな夢を見ているような構成なので(それも全てダリの見る夢なのかもしれないが)、非常にあらすじを説明しづらい話である。

 だが、決して分かりにくくはない。非常に普遍的なことを書いている。

 

 観客の中に創作を生業としている人がいたら、もしかしたらナルシスは悪魔に見えたかもしれない。

 最初から腹に一物・背に荷物という風情を漂わせていたナルシスだが、彼はダリに「芸術家として完璧な伝説となるために炎の中で死を迎える」ことを願う。

 鮮烈な死によって伝説となれという願いは非常に暴力的かつエゴイスティックなものだ。

 このエピソードは、クリエイターが世間から向けられている身勝手な願いを象徴しているかのように私には思えた。

 ファンである自分の思い描く理想のあなたであれ、さもなくば死ね。ここまで極端でなくとも、それに近いことを平気で言うファンはざらにいる。崇拝と憎しみは裏表のカードのようなもので、些細な作用でいかようにも何度でも引っくり返る。

 その無邪気にして残酷かつ暴力的な崇拝を身に纏ったナルシスは、私にとって出現した瞬間から恐ろしさしかもたらさない存在だった。いるだけで心がぞわぞわする、そうした気配を纏える能力の高さにも震える。

 ダリの死を願ったエピソードが露見した瞬間に「やっぱりか貴様!」と思った。知ってた、お前そういう奴って知ってた。登場した瞬間から知ってた。

 

 一方でガラはダリの命を守るために時間を止めていたことが分かる。

 ガラは自分を失ったダリが創作意欲をも失い、生きる気力までも潰えてしまうことを知っていた。

 そんなダリを守るために、生きろと全身全霊で願うために時間さえも止めてしまう、こちらは究極の愛である。

 暴力的な崇拝を向けられる立場の人は、こういう人がいないと生きていけない。もし自分がダリでなくても、何の才能もないただの凡庸な一個人であっても、生きているだけで自分を全肯定してくれる。

 たとえ出会いが自分の才能を担保にしたものであっても、その才能が失われたとしてもこの人だけは愛してくれると信じさせてくれる誰かが芸術家には必要なのだ。

 たった一人でもそんな人がいなくて、どうして世界中から向けられる崇拝の暴力に耐えて生きていくことができるだろうか。

 ガラを失ったダリが自分の命に執着を失うのは自明の理である。

 

 そこまで見越して、若い愛人アマンダに「私が死んだらあの人をよろしく」と遺言したガラの愛情の深さよ。そんなことは知らんとそっぽを向くアマンダを全面的に信じるガラ、「だってあなた、私のことも好きでしょ」――勝てない、こんなでっかい女がいるかよ! (サイズではなく。いやサイズもダリよりだいぶでっかいグラマラスクイーンだが。日本人離れしたゴージャス美女・輝月ガラであった)

 

 芸術の崇拝者たるナルシスと一心不乱な愛のガラ、ダリは一体どちらの手を取るのか――と思われた物語だが、ダリはどちらも遺作となる絵で抱きしめてのける。

 全てを燦々と照らし、あたため、命を育てる太陽に自分をなぞらえたヒゲのある太陽の絵で。

 瀬央ゆりあの持ち味がこの屈託のない愛の芸術家に遺憾なく発揮されており、訳の分からない夢のような展開ながら、太陽の絵の場面では訳が分からないままに涙が流れた。

 理屈は捏ねようと思ったら捏ねられるのかもしれないが、理屈が立った途端にこの作品はシュルレアリスムではなくなってしまうのだろうから、「訳が分からんが全俺が泣いた!」でいいのだと思う、多分。

 

 訳の分からない夢のような構成と何度も書いた。それは、そうした構成の恐ろしさを作家の端くれとして一応よく知っているからだ。

 理論や説明で補強できないシュールな場面は、連続すると鑑賞者の興味を突き放してしまう恐れがある。

 この人たちがこの訳の分からん世界でどうなろうがどうでもいい、と思われてしまったら最後である。そして、シュールな作品はそうなる危険を常にはらんでいるし、そうなってしまった作品も媒体を問わずいくらでもある。

 だが、今作に関しては、瀬央ゆりあ演じるダリのチャーミングさが夢の道行きの中でも観客の琴線をグッと掴んで最後まで離さない。このかわいらしい人の結末を見届けたい、という願いが最後まで観客を連れていく。

 瀬央ゆりあがいたから書けた作品でもあるのだろうなぁ、とも思う。この人なら誰も振り落とさずにラストシーンまで連れていってくれるという強固な信頼が感じられた。

 

 作家的な視点から余談を一つ付け加えると、谷貴矢も歴史を扱う上で「創作上の嘘」を鮮やかに操る人であったなと思った。

 歴史を題材に採るとき、名作となり得る条件は大胆に史実を飛躍し、柔軟に羽ばたき、それでいて歴史の辻褄を鮮やかに収斂することである。――と前回『RYOFU』のコラムで書いた。

 今回の大胆な飛躍は「『ダリの太陽』は遺作ではない」ということである。

 現実にはダリの遺作は『ツバメの尾』という作品だ。だが、この作品においてダリの遺作は『ダリの太陽』でしかあり得ない。

 それでいいのだ。

 谷貴矢本人もパンフレットで「うそぴょん、ごめんしてけろじゃ」的なコメントをぶちかましているが、現実を遵守して『ツバメの尾』を遺作にしたとして、絵の解釈をこねくり回して話の辻褄を合わせたとして、『Day Dream Dari』はこんなにも心を温める名作になり得たか? ――断じて否だ。

 あのギラギラ輝くユーモラスなヒゲの太陽だったからこそ、その絵を瀬央ダリが描いたからこその感動である。

 そして、史実を遵守しなかったからといってこの作品がダリをリスペクトしていないかといえば、それも断じて否である。

 ダリという人の愛らしさと才能は客席に最大限に伝わっている。

 

 歴史を題材に採るとき、名作となり得る条件を少し変更したいと思う。

 大胆に史実を飛躍し、柔軟に羽ばたき、「時として歴史の辻褄を回収しなくてすら名作となり得る」のだ。

 それは、史実との特異点が「物語の中に生きる人々の心を優先した結果」であった場合に起こり得る。

 歴史を紡ぐのが人である以上、その特異点は数多あり得たifのひとつであろう。

 

 若い作家が歴史を取り扱ったとき、ここまでやれる、やっていいのだという指針にもなれる作品だと思う。

 同じ感動を漫画媒体では『信長のシェフ』で感じたが、『RYOFU』と『Day Dream Dari』も私の中では同じ箱だ。

 この二作を同じ年度に生み出した宝塚の底力に震える春の観劇であった。

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