スパイシリーズ:世界を覆う「静かな戦争」第2回

福山 隆

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2026.3.12(木)

この写真の女性は本文と全く関係がありません、邵 敏によるPixabayからの画像

米ハーバード大学での体験

 自衛隊を定年退職した私は、米国のハーバード大学に2年間招かれるという思いがけない機会を得た。

 ボストンの空港に降り立った瞬間、六十の手習いながら、英語を一から学び直す決意がふっと湧き上がった。

 ハーバード大学は休暇期間になると、施設と教職員を使って公開講座(Extension School)を開き、世界中から集まる人々に学びの場を提供している。私はその英語講座を選び、テストを受けて中級クラスに入った。

 教室には、様々な国から来た学生がいた。中国、韓国、ロシア、スイス、トルコ、ルーマニア、そして多くのヒスパニック系。

 その中で、一人だけ異彩を放つ女性がいた。女優のオードリー・ヘプバーンを思わせる、すらりとした中国人女性。私は「楊貴妃とは、こういう人だったのか」と思わず見とれたほどだ。

 彼女は自分の本名を明かさず、「K.T.」とだけ名乗った。授業中はほとんど口を開かず、休み時間も誰とも交わらない。私が声をかけても、返ってくるのは冷たいほど簡潔な返事だった。

 そのときはまだ、彼女の沈黙の意味を知らなかった。講座受講期間の半年間、彼女はまるで“空気のような存在”だった。

 しかし、最終授業の日、彼女はまるでスイッチが入ったように態度を変えた。

「皆さんとの思い出を残したいの。写真を撮らせてください」

 そう言って、日本製のカメラを手に、これまで見せたことのない満面の笑みで教室を回り始めた。

 そして私は気づいた。彼女は、明らかに私を中心に撮っていた。他の学生はあくまで「背景」で、レンズの焦点は私に絞られ、何度も、執拗なほどにシャッターが切られた。

 インテリジェンスの世界に長くいた私は、「顔写真の収集」がスパイ活動の基本中の基本であることを知っている。

 顔写真は単なる画像ではない。そこには、その人物の経歴や活動地域、さらには性格の癖までもが滲み出る。顔写真は、個人に関するデータファイルの「基盤」となる情報だ。

 だからこそ、情報機関はまず「顔」を押さえる。

 旧西ドイツ連邦情報局(BND)の初代長官ラインハルト・ゲーレンは、「顔写真の台帳はスパイの仕事で極めて重要だ」と述べている。

 もちろん、私はもう現役の将官ではない。しかし、彼女の急激な態度の変化と、執拗な撮影には、どうしても違和感が残った。