父にたたかれた傷 今も 福島の伊藤久夫さん(91) 「集団自決」悲劇 南洋から沖縄へ続く
父親にまさかりでたたかれた時の頭の傷跡を見せる伊藤さん。

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琉球新報朝刊

 「なぜ親が、子どもを手にかけなければならなかったのか。米軍が殺さないと分かっていれば逃げなかったのに」。伊藤久夫さん(91)=福島県会津坂下町=は涙をこぼす。日本軍は住民を守ることなく、米軍は住民を殺す、とうその情報で恐怖をあおり、犠牲を強いた。翌年の沖縄戦でもそれは繰り返された。(1面に関連)
 1935年、生後3カ月の伊藤さんや両親、祖母など家族6人でテニアンに移り住んだ。冷害で凶作にあえぐ小作農家だった父は、渡航費を前借りし、移民の募集に応じた。旧南洋群島でサトウキビ農場を経営した国策企業・南洋興発の創業者が福島出身だったため、沖縄に次いで移民が多かったのが福島だった。
 44年2月の空襲後、女性と子どもは島から退避することになったものの、迎えの船が来ず、島に残らざるを得なかった。学校は兵舎になり、10歳の伊藤さんらも飛行場建設に駆り出された。「日本が戦争に負けるとは夢にも思わなかった」と振り返る。44年7月の米軍上陸で、一家は日本兵にもらった手りゅう弾などを持ち、カロリナスに向かった。「3日で帰れる」と父は言った。
 米軍はカロリナスに猛爆撃を加えた。死体が飛び散り、木にぶら下がっていた。父は沖縄出身の家族に「内地の人、一緒に死んでくれ」と懇願され、ガマの中で手りゅう弾を配った。「天皇陛下万歳!」の叫び声と爆発音が響いた。一家の手りゅう弾は不発で、混乱した母がまさかりを渡し、父が生きている人や家族をたたいた。伊藤さんも頭をたたかれたが、治療を受けて回復。その後、父と再会し、46年2月、福島に引き揚げた。
 「自分がたたかなかったら生きて帰れた」。父はそう言って知人の子どもに謝罪し、母も自分がそうさせたと悔いていた。「つらい思いをしてきた」。両親の胸中をおもんぱかり、学校などで語り継ぐ伊藤さん。「国同士が話し合い、戦争を阻止してほしい」と訴える。 (中村万里子)

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