一滴の雫に満たされている、数千年にわたる叡智……。
もはや国民的な飲み物の一つとなったワイン。近年、日本産ワインも急成長していることはご存知の方も多いと思いますが、さらに注目を集め始めているビオワイン、オレンジワインはご存知でしょうか。
ワインは、単なる嗜好品にとどまらず、人類が長い時間をかけて磨き上げてきた文化の産物として多くの人々を魅了し続けています。しかし、グラス一杯の背後には、ブドウ樹の生理、発酵微生物の働き、果汁やワインに含まれる化合物の化学反応、といった、さまざまな科学的要素が複雑に絡み合っています。
ワインの原料となるブドウの最新の栽培技術、醸造技術から、おいしさ、香り、健康効果はもちろん、温暖化によるブドウ栽培の変化など、ワインの魅力を科学の言葉で説明した『最新 ワイン科学』(講談社・ブルーバックス)。本記事シリーズでは、この書から、興味深いトピックを選りすぐってご紹介していきます。
今回は、ワインに含まれるポリフェノールの評価につながった「フレンチパラドック」について解説します。

*本記事は、『最新 ワインの科学 芳醇な香りと味わいはどのように生まれるのか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
フレンチパラドックスとは?
ワインに興味を持つ人であれば「フレンチパラドックス(French Paradox)」という言葉を一度は聞いたことがあると思います。フレンチパラドックスとは、フランス人が脂肪分の多い食事をしているにもかかわらず、心臓病の発症率が比較的低いという現象を指します。この現象が注目されたのは1992年フランス・ボルドー大学のルノー教授らの研究が、医学誌ランセットに発表されたことがきっかけでした。
乳脂肪消費量と心臓病死亡率の関係(図「乳脂肪消費量と心臓病死亡率の国別比較」)を見ると、フランス人の心臓病による死亡率は10万人あたり男性が94人、女性が20人と、ヨーロッパ諸国の中でも特に低いことがわかりました。
これは、フランスと同程度の乳脂肪消費量を示すイギリスの約3分の1、ドイツの約2分の1の数値にあたります。また、乳脂肪消費量がフランスの約3分の1にとどまるポルトガルやスペインでは心臓病死亡率がフランスと同程度であることが確認されました。
乳脂肪消費量と心臓病死亡率の国別比較
では、なぜフランス人は高脂肪な食事をとっても健康でいられるのでしょうか? その謎を解く鍵として注目されたのがワインの消費量です。
ワイン消費量が多いほど心臓病リスクが低下する?
フランスは世界でもトップクラスのワイン消費国です。国際ブドウ・ワイン機構(OIV)の調査によると、2023年におけるフランスの年間ワイン消費量は約2400万ヘクトリットル(1ヘクトリットル=100リットル)であり、1人あたり年間約50リットルを消費しています。この個人消費量は、ドイツ人の2.5倍、イギリス人の6.5倍、日本人の70倍にもなります。
そこで、乳脂肪消費量にワイン消費量を加味した計算式「乳脂肪消費量×0.138+145-ワイン消費量×0.917」を用いて算出した値と心臓病による死亡率の関係を調べたところ、各国のワイン消費量と心臓病死亡率には負の相関があり、ワインの消費量が多い国ほど心臓病死亡率が低いことがわかりました。
つまり、フランス人が乳脂肪を多く消費しているにもかかわらず、心臓病による死亡率が低いのは、ワインをたくさん飲んでいることが一因と考えられるのです。
フレンチパラドックスは、ワインをたくさん飲んでいることが一因と考えられた photo by iStockただの偶然? それとも本当の健康効果?
前回の記事で、赤ワインに多く含まれるポリフェノールと、心臓病を含む虚血性心疾患の関係を探る、興味深い実験を紹介しました。
さらに、フレンチパラドックスをきっかけに、赤ワインに含まれるポリフェノールが多様な健康効果をもつことを示唆する論文が数多く発表されました。その効果は血流の改善にとどまらず、認知症やアルツハイマー病などの脳疾患への作用、抗がん効果、さらには寿命の延長など、多岐にわたります。
とはいえ、「赤ワインを飲むだけで健康になれる!」という単純な話ではありません。フレンチパラドックスの背景には、ワイン以外の要因も関係している可能性があります。
例えば、フランス人は食事の際に時間をかけてゆっくりと食べる習慣があり、食事全体のバランスも健康に影響を与えているかもしれません。また、フランス料理ではオリーブオイルや新鮮な野菜、魚などが多く使われており、こうした食材の影響も無視できません。
さらに、フレンチパラドックスのデータが発表された後、研究が進むにつれて異なる見解も示されるようになりました。
例えば、フランスでは心臓病の診断基準が他国と異なるため、統計上の違いが生じている可能性が指摘されています。
また、近年の研究では、少量のアルコール摂取であっても健康リスクがあることが示されています。
そのため、「健康のために赤ワインを飲もう!」という単純なメッセージは、必ずしも適切ではありません。
「酒は百薬の長」ではありません!
適量の飲酒が健康に良いとされる考えに基づいたことわざに「酒は百薬の長」があります。適量のお酒を飲むことで日々のストレスがやわらぎ、またアルコールの食欲増進効果によって健康に良い影響を与えると考えられています。そのため、今なお多くの人がこのことわざを信じています。もっとも、実際には信じていないものの、お酒を飲むための言い訳として使っている可能性もあるかもしれません。
厚生労働省は、アルコールの適量を「1日あたり純アルコールで約20グラム」と定めています。アルコール度数14%の赤ワインなら約180ミリリットル、11%の白ワインなら約230ミリリットルに相当し、これが「なるべく病気のリスクが上がらない飲酒量」とされています。
しかし、2018年、驚きの研究報告が発表されたのです。
