金山城(群馬県太田市) 関東一望、堅固な石垣造り 美しい山容 ハイキングコースに

金山城が大きな山城だったことを示す地形模型=いずれも群馬県太田市金山町で

〈関東の推し城〉

 かつては戦の場として、また統治の拠点としてあった城。今では、つはものどもが夢のあと−と遠い昔に思いをはせるしかないものもあれば、郷土のシンボルとして街の風景の中でどっしり構えるものもある。関東各地で本紙記者が選んだ「推し城(おしろ)」をお伝えしていきます。

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 駐車場に車を止め、山頂の実城(みじょう)(本丸)を目指して歩き出す。緩やかな山道を一歩、また一歩と。登り口の印象は穏やかだ。だが、途上の物見台に立ち寄り、眼下の景色を見下ろすと、戦国の緊張感が不意に立ち上がってきた。眺めが良いだけではない。周囲を見張るのに格好の山だと、すぐに分かった。

 群馬県太田市の金山は、万葉集にも歌われ、美しい山容は古くから人々を引きつけてきた。もう一つの魅力は、関東平野を一望する開けた景色だ。金山城の強さは、こうした地形の利を生かしたところにあった。

 金山城が歴史に姿を現したのは1469(文明元)年。応仁の乱で中央の秩序が揺らぎ、地方の武士が自前の防衛拠点を求め始めた時代だった。新田一族の岩松家純の命により70日ほどで築かれ、改修を重ねながら、約120年で廃城となるまで、より堅固な山城へと鍛え上げられていった。

 同市文化財課長などを務め、城の発掘調査に約20年携わった宮田毅(つよし)さん(73)=同県板倉町=は、金山城の見どころとして、山城としての規模の大きさ、関東では珍しい石垣造り、豊富な水をたたえた「日ノ池」「月ノ池」、そして実城への入り口を厳重に守っていた一大防御拠点「大手虎口(こぐち)」の四つを挙げる。

 中でも目を引くのは石垣の存在だ。通路脇や土塁の縁、大手周辺にまで石が多用され、大手虎口近くで頑健な石垣が現れた瞬間、山道を歩いていた感覚が一変した。石垣は防御だけでなく、排水をよくし、曲輪(くるわ)や土塁の崩れを防ぐ役割も担っていた。高くどっしり構えた石垣には、来る者を驚かせ、城の威厳を示す意味もあったとされる。

 大手虎口の巧妙さも印象深い。城に攻め入る敵は細く屈折した石敷き通路に誘い込まれ、道幅を絞られ、左右の曲輪から横矢を受ける構造になっている。遠近法を生かし、通路を実際よりも長く見せる工夫も施され、敵の侵攻速度を落とすよう計算されていた。険しい山に城を置いただけではない。どこに敵を導き、どこで足止めし、どこから狙うかまで考え抜かれていたことが伝わってくる。

 山上の水も、この城を特別なものにしている。大手虎口の前に月ノ池、その上には日ノ池。山頂近くにこれほど大きな池があること自体が不思議だが、日ノ池からは築城以前の祭祀(さいし)遺物「土馬」(馬形土製品)も出土している。金山は戦国の城である前に、信仰の場であった可能性が高い。

 他にもかまどや井戸、排水路、建物跡が発掘調査によって見つかり、山上で人々が暮らし、長期の籠城に備えていたことがうかがえる。城は軍事施設であると同時に、政治と暮らしの場でもあったのだ。

 現在の金山城は、「日本100名城」のスタンプを目当てに訪れる人も多い。南曲輪休憩所でスタンプを押していた埼玉県深谷市の会社員女性(28)は「歴史を感じさせる風格がある一方、しっかり整備されて、駐車場からここまで歩くのにもちょうど良い」と話した。南曲輪周辺では、トレッキングポールを手にしたハイキング客の一団ともすれ違った。戦国の城だった山が、今は市民や近隣の人たちに親しまれる憩いの場にもなっている。

 金山城は年表を追うだけでは見えてこない。物見台から市街地を見下ろし、石垣の前で足を止め、池の水に見入り、大手虎口の曲がりをたどって初めて、この城の実像が立ち上がる。万葉に歌われた美しい山が、戦国には難攻不落の城となり、今は人々に開かれた山となった。その長い時間の積み重ねこそが、金山城の魅力なのだ。(平井剛)

 史跡金山城跡は、北関東自動車道・太田桐生インターチェンジから車で約15分(カーナビは「金山城」または「新田神社」で検索)。金山ドライブウェイ終点に36台分の無料駐車場があり、実城(本丸)の新田神社までは徒歩約20分。日本100名城スタンプがある南曲輪休憩所は午前8時半〜午後5時に開場。無休。無料駐車場から車で約10分の場所に史跡金山城跡ガイダンス施設があり、午前9時〜午後5時に開館。月曜休館、入館無料。史跡ガイドの希望は同施設=電0276(25)1067=へ。

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