
16日、サンフレッチェ広島の元総監督で、広島というクラブの礎を作り上げ、多くのJクラブに多大な影響を与えた今西和男さんが逝去された。現役時代の多くを広島で過ごした高木琢也監督にとって、今西さんはとても大切な人であり、恩人である。以前、取材時の受け答えについて「高木さん、受け答えがスマートですよね。そういうのは代表選手だったりしたから、意識して身に付けたんですか?」と尋ねると、「そういう部分もあるだろうけど」と言いつつ、すぐさま「今西さんと、あとは小嶺先生のおかげだよね」と答えた。
「サッカー選手であると同時にまずは一人の社会人であれというのが、今西さんの教えでね。礼儀や言葉遣いはそこで徹底的に叩き込まれたよ」
今西さんは大学を卒業したときも高木さんに熱心に広島に来るよう誘っていたそうだが、当時の高木さんは最初、広島ではなく平塚を選択した。だが、1年後、結局はラブコールを送り続けていた今西さんの熱意と、「イングランドに行かせてくれるっていうから(笑)」という理由で広島に移籍。以後、日本代表として確固たる地位を築くのだから、今西さんのラブコールがなければアジアの大砲が誕生したかどうかはわからない。

高木監督は広島を離れても今西さんを師と慕い続け、長崎の監督に就任する際もアドバイスを仰いでいる。何かあるといつも今西さんのことを気にかけていた。
それだけに今西さんの訃報を受けた直後の広島戦はいろいろと思うことがあっただろう。同時にそんな中でも目の前の試合と、その後の指導も考えなければならず、相当なストレスがかかっていただろう。にもかかわらずそんな気配を押し殺していかねばならないのだから、プロはやはり大変な世界だと思う。
考えてみれば、私が直接知るだけで高木監督は過去に2回、同じ経験をしている。
8年前、深く信頼し、私も個人的に大変お世話になっていたライターの刈部謙一さんが亡くなったのは、札幌とのアウェイゲームの直前であった。試合前のコメントを話す様子にはほとんど動揺を感じさせなかったが、そのことを知っていた私は、目の動きや話し方にわずかな揺らぎを感じて何とも切なくなったものである。同様にSC相模原で監督をされていたときも、御尊父を亡くされたが、当時、残留争いをしていたチーム事情を考慮して悩んだ末に実家に戻らず指揮を執った。墓前に参ることができたのは2週間ほど経ってからだったという。
そして今回である。
そして、こういったことは高木監督に限らずサッカーに関わる全ての選手・スタッフの世界では起こることである。今は九州文化学園高校サッカー部監督で、今年1月に選手権出場も達成した有光亮太監督は、九州リーグを戦うV・ファーレンでプレーしていたとき、ご家族を亡くされているが、やはり試合を優先した。試合後、ファンへの挨拶もそこそこにスタジアムを出たのでどうしたのかと思ったら、その足で葬儀へ向かったとのことだった。家族を亡くしても練習を数日休んだだけで何も語らない選手もいる。練習すら1日休んだだけだった選手もいる。「普段どおりにサッカーをしている方が気が紛れて楽だった。あのときに、いろいろ気を遣われるとかえって苦しかったと思う」と語った選手もいた。

何とも因果な職業である。だが、一方でそれが恩返しでもあるのだと思う。かつて指導した人間が今も立派にサッカーをしている、サッカーに関わっていることが、亡くなられた方の残した財産であり成果なのだ。
以前、何かの文章で読んだ言葉だが、生き物は亡くなったときに最後まで残るもので数えられるという。牛や馬は最後に頭蓋骨が残るから一頭、二頭と数えるし、鳥は羽が残るから一羽、二羽。その理屈で言えば人が亡くなったときに最後に残るのは一名、二名なので、「名」である。
そういった意味では今西さんは名を残し、そして関わった教え子たちという素晴らしい財産を残してくれた。その財産をどう活かすかは、これからを生きるサッカー界の人全ての働き次第なのである。
