原爆の記憶を語り継ぐ「被爆ツツジ」 長崎市平野町の長崎原爆資料館南側の中庭に移植された「被爆ツツジ」が、今年も開花した。原爆開発に携わった米科学者の映画が3月末から公開され、あらためて核兵器の脅威が叫ばれる中、鮮やかな濃いピンクの花は、静かに「あの日」の記憶を伝えている。(坂口祐治)
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ツツジは同市油木町の池田孝通さん(71)の父・操さん(故人)が、被爆40年の1985年に同館に寄贈し、移植された。
造園業時代の操さん(池田孝通さん提供) 操さんは戦時中、中国に出征。46年1月、上海から復員し、引き揚げ船で佐世保市に上陸した。「帰りを待つ家族のために」と米を担ぎ、歩いて長崎の自宅までたどり着くと、義母や妻、赤ん坊だった長男らは原爆で亡くなっていた。爆心地から1・1キロ。被災したツツジや松などの木々だけが庭跡に残っていたという。 操さんは戦後再婚し、造船所勤務などを経て造園業を営み、97年に83歳で亡くなった。 ツツジは高さ約1・4メートル。根元近くには被爆の痕跡と思われる筋状の傷痕が今も残っている。操さんはその後、被爆した松も寄贈し、ツツジと並んで家族の原爆の歴史を伝えている。 孝通さんは父の自宅跡で長年喫茶店を経営。敷地にはまだ数本の被爆樹木があり、大切に見守っている。「父は原爆のことをあまり話さなかったが、被爆ツツジは父にとって大切な家族の形見だったのでしょう。これからも多くの人に見てもらい、平和を考えてもらえれば」と話している。
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