エンドリッキ(ブラジル)、レナート・カール(ドイツ)、ビクトル・ムニョス(スペイン)、ラヤン・シェルキ(フランス)、ジュリアーノ・シメオネ(アルゼンチン)、エリオット・アンダーソン(イングランド)、アルダ・ギュレル(トルコ)――ロシア大会で数々の記録を塗り替えながら、当時19歳でフランスの20年ぶり優勝を牽引したキリアン・ムバッペのように、初出場のW杯で主役の座へと駆け上がり、次のサッカー界を背負っていくU-23の新星は誰か? そして彼らの世界を驚かせる才能は、一体どのような「環境」と「育成」で磨かれてきたのか? 北中米大会で輝くであろう、次世代スターたちの軌跡をたどる。
第1回は、前回王者のアルゼンチンから、ディエゴ・シメオネ率いるアトレティコ・マドリーの一員として「自分の実力で居場所を勝ち取り」、その父に続くW杯メンバー入りを果たした23歳の三男、ジュリアーノの物語。
「初めて(アトレティコ・マドリーの)Bチームに入った時、ユニフォームに名前を入れることになった。兄のジャンルカは『G. Simeone』と入れていて、一番上の兄貴(ジョバンニ)は『Simeone』、父も『Simeone』……みんな『シメオネ』だった。でも僕はずっと、シメオネという苗字とは別に、自分の道を切り開きたいと思っていたんだ」
ホルヘ・バルダーノによるインタビュー番組『Universo Valdano』で、ジュリアーノ・シメオネは、ユニフォームに自分のファーストネームだけを入れている理由について語った。
「簡単な決断ではなかった。でも僕は背中に『Giuliano』と入れることにした。自分のことは『シメオネ』ではなく、ジュリアーノとして知ってもらいたかったからだ」
かつて選手として、そして今は監督としてサッカー史にその名を刻むディエゴ・シメオネの息子――ジュリアーノは、父と同じプロ選手としてのキャリアを歩むにあたって、そんな肩書きに頼りたくなかった。偉大な父の背中を見ながら育つことと、その背に乗ることは違う。アトレティコ・マドリーで実力を認められ、飛躍のチャンスを与えられた時から、彼は「シメオネの息子」というイメージを取り払う心意気で勝負の世界に身を投じたのである。
後列左から長男ジョバンニ(30歳)、次男ジャンルカ(27歳)、父ディエゴ(56歳)、三男ジュリアーノ(23歳)。元アルゼンチン代表MF(通算108試合11得点)の父は1994年、1998年、2002年とW杯3大会に出場した。同じく代表経験もある(通算6試合1得点)長男は2025-26シーズン、トリノのCFとしてセリエAで32試合11得点をマーク。次男は昨年8月に現役引退を発表している
父が三兄弟に求めたプロ意識。16歳でリーベルからアトレティコへ
2002年にイタリア・ローマで生まれたジュリアーノは、現役を引退した父が指導者としてラシン・クルブの監督に就任した2006年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスへ移り住んだ。ほどなくして2人の兄と一緒に名門リーベルプレート(通称リーベル)のジュニアチームに入団。幼い頃からプロを目指し、本格的にサッカーを始めた。
家庭では優しい父だったが、事がサッカーとなると話は別だった。ディエゴは息子たちに徹底したプロ意識を求め、特にコンディション管理と食生活には厳しかったという。アルファホール(大人も子供も大好きな国民的菓子)も口にさせず、誕生日や結婚式などの祝い事では未成年も夜通しパーティーに出席するのがノーマルなアルゼンチンで、睡眠を優先するために親族や学校の友人たちとの集まりでさえ欠席させることが少なくなかった。
長男のジョバンニもリーベルの8軍でプレーしていた15歳の頃にこう語っている。
「22時までにはベッドに入るから、パーティーに誘われても行かない。思うように体が動かなくなるし、走れなくなるから、甘いものも一切食べないし飲まない」
印象的だったのは、「父から教えられた」とは一言も言わず、それをあくまでも自分自身の信念として誇らしげに語っていたことだ。ジョバンニより7歳年下のジュリアーノにとって、そうしたプロフェッショナルな環境は幼い頃からの日常だったのである。
2016年6月(当時13歳)のInstagram初投稿は、父の日を祝う「世界一のパパ、愛してる!!!!!!」のメッセージ
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Profile
Chizuru de Garcia
1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。
