アフリカ・バンバータ「Planet Rock」とTR-808 音楽と録音の歴史ものがたり Vol.148

トミー・ボーイに迎え入れられたプロデューサー、アーサー・ベイカーのバックグラウンド

 雑誌『Dance Music Report』の編集者だったトム・シルヴァーマンは1981年にトミー・ボーイ・レコードを設立。そこにプロデューサーとして引き入れられたのが、ボストンからニューヨークに移ってきたアーサー・ベイカーだった。

 アーサー・ベイカーは1955年生まれで、もともとはヘビーなロック・ファンだったが、ボストンの大学時代にはDJを始めていた。ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・サウンドには深く傾倒したようだ。しかし、彼はDJよりも音楽プロデュースを志向していた。“自分のDJはひどいものだった。ニューヨークのレコード・プールに通って、サンプル盤をもらうためにやっていたようなものだった”とベイカー自身も振り返っている。

 ベイカーがボストン時代に制作したディスコ・ヒットに「I Don’t Need No Music」という曲がある。これはベイカーがシンガーのトニー・カーボーンとドラマーのラッセル・プレストとともに作っていたトラックをトム・モールトンが拾い上げ、1979年にカサブランカ・レーベルからTJMという名義でリリースしたものだ。ラテン風味を加えた高揚感あふれるダンス・チューンで、完成度も高く、ベイカーのその後を予感させる要素もある。

『TJM』
TJM
(1979年/Casablanca / Tom’N Jerry)
アーサー・ベイカーがボストン時代に参加したトム・モールトンのプロジェクト。ブラス/ストリングスが華やかなディスコ・サウンド。ダンス・ミックスの達人モールトンについては連載第124回以降で言及した

 「I Don’t Need No Music」でディスコ業界の注目を得たベイカーは、ジョー・バターンのアルバム制作にも引き込まれたが、これは計画途中で頓挫した。バターンとベイカーがアルバム用に準備した曲の中には「Rap-O Clap-O」というラップの曲があり、バターンはそれを古巣のサルソウルからシングルとして、リリースすることにした。シェリル・リン「Got To Be Real」のリズムを借りて、バターンがラップする同曲は1979年11月にリリース。シュガーヒル・ギャングの「Rappers Delight」にはわずかに遅れを取った最初期のラップ・レコードの一枚になった。クレジット上はバターンのプロデュースとなっていたが、実質的にはそれはベイカーが制作したものだった。

『Mestizo』
Joe Bataan
(1980年/Salsoul)
連載126回でも紹介した、サルソウル第1号アーティスト=バターンのアルバム。「Rap-O Clap-O」はシェリル・リン「Got To Be Real」ベース・ラインを下敷きに、シンセ・パーカッションやクラップが加わる

 トム・シルヴァーマンはそんなベイカーの動きに目をつけていたのだろう。『Dance Music Report』でベイカーにレビューを担当させ、ベイカーがニューヨークに移ってくると、アフリカ・バンバータのレコード制作を持ちかけた。バンバータはある日、シルヴァーマンとベイカーが2人で会いにきたと振り返っている。

 ただし、トミー・ボーイでの彼らの最初のプロジェクトはシングルのB面のためのものだった。1981年に発表された12インチ・シングル「Jazzy Sensation」は、クリプティック・クルー・フィーチャリング・ティナ・B名義のマンハッタン・バージョンがA面だった。シンガーのティナ・Bはベイカーのボストン時代からの友人で、このころ彼と結婚している。「Jazzy Sensation」の元ネタはグウェン・マックレー「Funky Sensation」で、それもベイカーのチョイスだった。

『…And You Don’t Stop – A Celebration of 50 Years of Hip Hop』
V.A.
(2023年/Tommy Boy)
レーベル・クロニクル的なLP×6枚組に、「Jazzy Sensation」マンハッタン・バージョンを収録。ベースや装飾音にシンセが多用されている点がブロンクス・バージョンと大きく異なる

 アフリカ・バンバータ&ジャジー・ファイヴ名義の「Jazzy Sensation」はそのB面用に企画されたブロンクス・バージョンだった。しかし、そのブロンクス・バージョンのほうが評判を呼び、トミー・ボーイは翌年にそれをA面にした12インチを出し直す。アイランド・レコードはコンピレーション『Genius Of Rap』に同曲を収録し、アフリカ・バンバータの名を世界に知らしめた。

 レコーディングが行われたのはインターギャラクティック・スタジオ。マンハッタンのアッパー・イーストサイドのシルヴァーマンの自宅の近くにあったスタジオだというが、NEVEコンソールがあり、さらにFAIRLIGHT CMIも備えていたという。「Jazzy Sensation」をミックスしたのは当時22歳のシェップ・ペティボーンで、同曲は彼のダンス・ミュージック・シーンでの快進撃のきっかけにもなった。

FAIRLIGHT CMI(写真は1983年のSeries IIx)

FAIRLIGHT CMI(写真は1983年のSeries IIx)。サンプラーと加算合成シンセ、シーケンサーを統合した、後のワークステーション・シンセのはしり。CRTディスプレイにライトペンで直接波形を描くこともできた。サンプリング性能は、Series Iでは8ビット/30.2kHz
Photo:Peter Wielk, CC BY-SA 4.0

「Planet Rock」のシンセを担ったMr.エレクトロ=ジョン・ロビー

 アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースの「Planet Rock」はそれに続くベイカーとバンバータのコラボレーションだった。インターギャラクティック・スタジオでのレコーディングは1981年の終わり。ナイト・セッションが3回くらいだったとベイカーは振り返る。

 「Planet Rock」はクラフトワークやイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の音楽の中に、ブラック・ダンス・ミュージックと親和するファンクネスを見出していたバンバータならではのセンスを示す一曲だった。しかし、それを実現したのはアーサー・ベイカーとシンセサイザー・プレイヤーとしてレコーディングに引き込まれたジョン・ロビーの2人だった。ロビーは長い活動歴を持つギタリスト/キーボード奏者だが、次第にエレクトロニクスに傾倒し、1981年にはソロ名義で「Vena Cava」というボコーダーを使ったエレクトロ・ダンス・チューン的なシングルを出していた。同曲はバンバータのお気に入りだったようだ。

ジョン・ロビー

ジョン・ロビー。後年にはチャカ・カーンの制作やニュー・オーダーのリミックスも手掛ける。画像はインタビューと実演映像を収録したYouTube動画「John Robie … Mr Electro !」で、ROLAND TR-808とSSLコンソールでのリアルタイム・ミックス
https://youtu.be/Sa2KkLDjnes

『Life & Death On The New York Dance Floor 1980-1983』V.A.

『Life & Death On The New York Dance Floor 1980-1983』
V.A.
(2019年/Reappearing)
ティム・ローレンスによる同名書籍(2016年/Duke University Press)と関連して制作されたコンピ。ジョン・ロビー「Vena Cava」を収録

 ロビーはインターギャラクティック・スタジオにMOOG MinimoogとSEQUENTIAL Prophet-5を持ち込んだ。「Planet Rock」はクラフトワーク「Trans Europe Express」のメロディをモチーフにしていたが、それはすべてロビーの手弾きでレコーディングされたという。

 「Trans Europe Express」のテンポはラップのトラックには遅過ぎたので、バンバータはキャプテン・スカイの「Super Spoom」のビートを使うことを提案した。一方、ベイカーの念頭にはクラフトワーク「Numbers」のビートがあった。シンコペイトしたキック、そして、エレクトロなドラム・サウンドだ。その実現のために、スタジオに持ち込まれたのがROLAND TR-808だった。

『The Adventures of Captain Sky』
Captain Sky
(1978年/AVI)
シカゴ出身のファンク・シンガー/ベーシストのデビュー・アルバム。「Super Spoom」は後年、パブリック・エネミーやウータン・クラン、デ・ラ・ソウルもサンプリングした

 ベイカーが最初にTR-808に触れたのは、マンハッタンの楽器店だったという。ベイカーはLINN LinnDrumやOBERHEIM DMXにはさして魅力を感じていなかったが、TR-808のサウンドには未来を感じた。しかし、購入するまでには至らなかった。「Planet Rock」に使われたTR-808はVillage Voice紙に広告が出ていたレンタルを利用したものだった。1セッションにつき25ドル。ベイカーはキャッシュでそれを支払った。故に、歴史的な録音に使われたTR-808が誰の所有物だったかは、分からなくなってしまっている。

1980年にリリースされたROLAND TR-808

1980年にリリースされたROLAND TR-808。当時はサンプリング用のメモリーが高価だったため、同社のアナログ・モジュラー・シンセSystem-700でドラム・サウンドを作り、それをアナログ回路で再現していった

当初はヒット製品ではなかったROLAND TR-808

 ROLAND TR-808は1980年発売だったが、当時は決して人気のあるリズム・マシンではなかった。日本での定価は15万円。米国では約1,200ドルだった。製造されたのは1980年から1983年にかけてで、出荷台数は12,000台ほどだったとされる。

 実は筆者もその1万人強のTR-808の所有者の一人だった。それも1980年の発売時に最初期ロットを購入している。TR-808に初めて触れた日のことは今もよく覚えている。当時の僕は『プレイヤー』誌の編集部で働いていた。そこにROLANDから製品レビュー用のTR-808が送られてきたのだ。

 当時の『プレイヤー』編集部では、ドラマーでもある永田裕が在籍していた。彼は佐藤奈々子率いるSPYというバンドの一員で、1980年のデビュー・アルバムでもたたいている。ROLANDが前年に発売したDr. Rhythm DR-55を勧めてくれたのも彼だった。リズム・パターンのプログラムが可能なDR-55を使い、そのDR-55のCV/GATEを利用して、シンセサイザーのフィルター発振やホワイト・ノイズのシェイピングでドラム・サウンドを鳴らすという実験もしていたから、より本格的なプログラムが行えるリズム・マシンであるTR-808を2人でチェックするのは当然の流れだった。

 TR-808が編集部に送られてきた晩、ほかの人々が全員帰った後に、永田氏と2人でそれで遊び始めた。ブライアン・イーノがプロデュースしたララージ『Ambient 3: Day of Radiance』を背景に流しながら、TR-808をいじりまわし、走らせ続けた。面白くてやめられず、朝までずっと遊んでいた。発売と同時に楽器店に飛んで行き、個人でも購入した。

 しかし、その興奮は長くは続かなかった。1981年にYMOが発表した2枚のアルバム『BGM』と『テクノデリック』でTR-808は多用された。その特徴的なサウンドはあっという間に耳慣れたものになった。フリーの音楽ライターとして、急激に忙しくなっていた僕はTR-808に触れる時間もなくなり、それを手放してしまった。友人のFENDER Telecasterと交換したのだ。1982年の夏にニューヨークに旅行して、アフリカ・バンバータ&ザ・ソウル・ソニック・フォースの「Planet Rock」の洗礼を受けたとき、僕はもうTR-808を所有していなかった。卒業したような感じだった。

『BGM』
Yellow Magic Orchestra
(1981年/Alfa)
オリジナル・アルバムとしては4作目。「CUE」「MASS」のほか「ラップ現象」などを収録。生楽器の比率が減り、前年の日本武道館公演から使用したROLAND TR-808が多用された

『テクノデリック』
Yellow Magic Orchestra
(1981年/Alfa)
「PURE JAM」「NEUE TANZ」「SEOUL MUSIC」「体操」などを収録。カスタム・サンプラーLMD-649が導入され、「LIGHT IN DARKNESS」「KEY」では声や缶をたたいた音などでビートが組まれた

ダンス・フロアと音楽の歴史を変えたTR-808と「Planet Rock」

 開発したROLANDもその頃にはTR-808は不人気の失敗作だったと認識していたようだ。LinnDrumの数分の1の価格に抑えるために、サンプル音源は使わず、ローランドが過去のリズム・マシンで培ってきた技術を総動員して作られたのがTR-808だった。1978年発売のCompuRhythm CR-78や1979年のDr. Rhythm DR-55の延長線上に開発されたと言ってもいいだろう。しかし、LinnDrumやFAIRLIGHT CMIの登場で、リアルなサンプル音源への志向が高まっていた欧米のレコーディング・スタジオでは、TR-808のエレクトロなドラム・サウンドは歓迎されたとは言い難かった。

 その状況を一変させたのが、1982年夏の「Planet Rock」の大ヒットだった。アフリカ・バンバータとアーサー・ベイカー、ジョン・ロビーのチームはTR-808を使って、クラフトワークのサウンドをブーストし、それをヒップホップという新しい文化と接続した。TR-808の特徴的なカウベルやハンド・クラップを積極的に使い、マシンのビートであることを強調。サイン波を基にしたキック・サウンドを巨大なダンス・フロアに向けて、チューンした。

 「Planet Rock」のリズム・トラック制作はバンバータとベイカーとロビーの3人だけで行われ、ラッパーは誰もそこにはいなかった。リズム・トラックを作り終えて、ブルックリンの自宅に帰ったベイカーはその晩、“音楽の歴史を変えた”と妻に話したという。ロックとディスコの両方に影響を受けてきたベイカーは、アップタウンのダンサーたちにもダウンタウンのロック・ファンにも受けるようなレコードを作り出すことが夢だった。TR-808を使った「Planet Rock」のリズム・トラックはそれを実現させるものに思えた。

 ロックにも精通し、マシン・ビートも好んでいたバンバータは、その方向性を支持していた。しかし、スタジオにやってきたソウル・ソニック・フォースのラッパーたちは「Planet Rock」のリズム・トラックを嫌悪したという。ラッパーたちは「Jazzy Sensation」のようなディスコ・ビートを望んでいたのだ。こんなリズムじゃラップできないと拒否するミスター・ビッグスをベイカーたちは説得しなければならなかった。

サウンド&レコーディング・マガジン 2008年11月号
アーサー・ベイカー

2008年11月号では表紙&巻頭でアフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォース「Planet Rock」をフィーチャー。アーサー・ベイカー(右写真/本人提供)によるインタビューで、そのプロダクションの過程を明らかにしていった

“ヒップホップの本流”とTR-808のマシン・ビートとの関係

 「Planet Rock」のシングル・リリースは1982年4月だったが、夏のニューヨークを席巻した同曲は9月までに50万枚以上のセールスを挙げた。それはラップのシングルとしてはカーティス・ブロウ「The Breaks」に次ぐものだったが、過去のラップ・レコードはほぼ例外なくサウンド面ではディスコやファンクのそれを踏襲していた。ラップのレコードから、それまで誰も聴いたことのない新しいサウンドが流れ出したのは、「Planet Rock」が最初だと言っていい。かくしてそれは歴史の流れを変えるレコードとなった。

 ラップよりもヒップホップという言葉がジャンルの名称として多用されるようになる分岐点も、「Planet Rock」のヒットにあったと言えるだろう。ただし、音楽的には「Planet Rock」はブロンクスで生まれたヒップホップという文化の本流とは異なるものだった。ヒップホップはマシン・ビートとともに生まれたものではなかった。その始点にあったのは、クール・ハークによるブレイクビーツの発明だ。にもかかわらず、「Planet Rock」のヒットは多くの人々にTR-808のマシン・ビートをヒップホップ的なサウンドだと信じ込ませてしまった。

 TR-808の特徴的なサウンドをあえて使う動きは、ヒップホップの外でも起こった。1982年10月にリリースされたマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」は、ゲイがレゲエのリズムを念頭にTR-808を操ったところから生まれ、全米チャートの3位まで昇るゲイにとって久々のヒット曲になった。同曲をフィーチャーしたアルバム『Midnight Love』でもゲイは全編でTR-808を使いまくっている。

『Midnight Love』
Marvin Gaye
(1982年/Columbia)
「Sexual Healing」を収録した、16枚目にして遺作。モータウンからの離脱、2度目の離婚、薬物依存といったトライブからの脱却のためヨーロッパに滞在中、ROLAND TR-808とJupiter-8を曲作りに使用

 リズム・マシンを人間のドラミングの代わりに使うのではなく、そのエレクトロなサウンド自体の魅力を追求する。現代まで続く、そういう巨大な潮流が生まれたのが、1982年の後半だったのは間違いない。同年12月にリリースされたアフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースの「Looking For The Perfect Beat」はタイトルからして、象徴的な一曲だった。「Planet Rock」の続編となるこのシングルは、バンバータらがツアーしている間にベイカーとロビーが用意したものだ。ベイカーは「Planet Rock」を超える曲を作らねばならない、というプレッシャーから、コカインを大量摂取しつつ、スタジオにこもっていたと告白する。

『Looking For The Perfect Beat: 1980 – 1985』
Africa Bambaataa
(2001年/Tomy Boyl)
「Looking For The Perfect Beat」をアルバム名に冠した、トミー・ボーイ20周年を祝うアフリカ・バンバータ楽曲のコンピレーション

 120BPMのエレクトロ・ファンク・ビートを使った「Looking For The Perfect Beat」は、現代から見れば、完全にヒップホップの本流から外れ、脇道に逸れたプロジェクトだ。「Looking For The Perfect Beat」にはもはや元ネタもなかった。DJもターンテーブルもどこかに行ってしまい、新しいビートを求めたマシーンとの格闘だけがある。それはヒップホップよりもむしろ、その後にやってくるテクノや、世界各地でさまざまな名称を生み出していくエレクトロ・ダンス・ミュージックの先駆と考えたほうが良いものだろう。

 しかし、1983年に差し掛かろうという時期には、「Planet Rock」や「Looking For The Perfect Beat」がヒップホップ・サウンドのイメージを代表していた。そして、他ジャンルのアーティストがそこになだれ込んでいくことにもなった。

 

高橋健太郎

高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Xアカウントは@kentarotakahash

Photo:Takashi Yashima

関連記事:音楽と録音の歴史ものがたり

Share.