江戸城(東京都千代田区) 世界屈指 広大なスケール 自慢の防御構造 石垣に今も大火の跡

巽櫓(手前)。左奥は富士見櫓

〈関東の推し城〉

 かつては戦の場として、また統治の拠点としてあった城。今では、つはものどもが夢のあと−と遠い昔に思いをはせるしかないものもあれば、郷土のシンボルとして街の風景の中でどっしり構えるものもある。関東各地で本紙記者が選んだ「推し城(おしろ)」をお伝えしていきます。

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 徳川家康らあまたの将軍が居住した江戸城郭は東京駅から徒歩10分ちょっと。現在の皇居や付属庭園・皇居東御苑あたりに中心があった。1868年に皇居となり、修繕しながら使い続けてきたため江戸の痕跡を残す遺構も少なくない。

 「日本最大、世界でも屈指の大きさの城郭。見どころが詰まっている」。時代小説好きが高じて約20年前に歴史探訪サークル「大江戸歴史散歩を楽しむ会」を発足させた代表の渡辺功一さん(74)=練馬区=に江戸城の天守台が残る東御苑を案内してもらった。

 大手町に近い大手門から入ると、実感するのは江戸城の守りの堅さ。入城してもすぐに櫓(やぐら)を載せた城門がもう一つある。「突破してもすぐに足止めを食らい、櫓門から狙い打ちされる」(渡辺さん、以下コメント同)という枡(ます)形門の構造だ。二つの門で入り口の向きを変えており、方向感覚を狂わせる狙い。ほかの多くの門にも採用されている。

 大手門から先へ進んでも、整然と積まれた石垣と城門の痕跡がいくつも現れる。近くに警備詰め所の「番所」があり、現存するだけで約200メートル区間に同心番所、百人番所、大番所と三つある。登城者を厳しく監視していたと想像させる。

 本丸を目指して坂を上ると、本丸手前に「中雀(ちゅうじゃく)門跡」がある。その石垣の石は現在も黒く焦げてひび割れた跡がある。「1657年の明暦の大火で焼け落ちた天守台の石垣。白石は瀬戸内産の花こう岩、黒石は伊豆石で、十分に使えるし、入城する際、江戸を焼き尽くした大火を忘れさせない狙いもあって使われ続けた」

 中雀門跡から坂を上がると、眼前に広がるのが広々とした本丸跡だ。13ヘクタールの本丸大芝生には江戸時代、幕府の中央政庁としての機能を持つ「表」、将軍の執務や生活エリア「中奥」、さらにその北に女性だけの「大奥」があった。中奥と大奥の間は厳重に仕切られていたとされ「女の園へ男を入れない名目。でも本当の理由は天守の下に隠した御金蔵に近寄らせないためではないか」とも見ている。

 大奥跡の北に城郭のメインとなる天守台跡がある。家康の入城以来、天守は3度建てられ、特に1638年に完成した寛永期の天守は高さ約60メートル、標高も含めると80メートルあり、江戸の町を見渡した。だが57年の明暦の大火で焼失。2年後には現在の天守台を再建したものの、復興を優先して天守は再建しなかったという。

 東御苑の中で天守台のちょうど反対側にあるのが三重構造の富士見櫓。再建を断念した天守に代わり、将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めた場所とされる。現存する櫓は伏見櫓、巽(たつみ)櫓を加えた三つしかないという意味でも貴重だ。

 生活が垣間見える話題も。天守台から東へ坂を下った平川門の手前に、方角的には鬼門となるもう一つの門と、堀の船着き場へ抜ける階段があった。「本丸の遺体や罪人、下肥などをそこから舟で搬出した。大奥は当然いい物を食べているから、大奥の下肥は金肥と呼ばれ、下総あたりで野菜と交換してきたらしい」

 防御構造に話を戻せば、天守台近くにある北桔橋(はねばし)門も要注目だ。門の天井付近に鉄の金具があって「敵が攻めてくれば木製の橋を上げて金具に引っ掛け、橋を使えなくした」そうだ。

 都心の真ん中にありながら、これまで歩く機会が実はほとんどなかったが、半日では足りないほど見どころが多く、緑豊かで落ち着いた空間と魅力を実感した。「歩いてみれば歴史的な出来事が頭の中でつながって理解も深まる。何度も来て歩いてほしい」という渡辺さんの言葉に納得した。(井上靖史)

 城下町を含む城郭一体で見ると、外周は神田川や外堀がある現在のJR浅草橋−四ツ谷各駅付近と東京メトロ赤坂見附、溜池山王各駅、御成橋(JR大崎駅近く)付近とされる。中心部は現在の内堀に囲われた皇居、皇居東御苑、北の丸公園、皇居外苑あたりの約101ヘクタール。明治天皇が1868年(明治元年)に入城し皇居となった。旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居付属庭園として整備した東御苑は21ヘクタールで1968年から宮中行事に支障ない範囲で公開されている(月、金曜除く)。皇居も事前予約か当日整理券があれば一般参観できる(日、月曜除く)。

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