沖縄フェイクとファクトチェック

2025年5月3日、沖縄・那覇市で開かれた憲法に関するシンポジウムで、自民党の西田昌司参院議員が「沖縄・糸満市の『ひめゆりの塔』では、沖縄戦で数多くの犠牲者が出たひめゆり学徒についての説明の中に、沖縄に日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて、沖縄が解放されたという文脈で書いてある。歴史を書き換えるとこういうことになってしまう」などと発言。これに対して、沖縄戦の事実を歪め、沖縄の教育を誹謗するものだと大きな問題になりました(RBC 琉球放送)。

ひめゆりの塔のあるひめゆり平和祈念資料館は、「過去も現在もそのような記述はないと断言する」と否定したほか、沖縄県議会も自民党をはじめ賛成多数で抗議決議を出しました(NHK沖縄)。

このような発言をはじめ、沖縄戦など沖縄の現代史や米軍基地をめぐる問題に対する誤った情報が拡散したり、基地撤去や縮小などを求める活動などに対しては、プロの活動家によるものだ、外国勢力の影響を受けているなど根拠のない情報が繰り返し拡散したりします(琉球新報)。

ここでは、こうした情報や発言を検証しながら、それらの発言や情報拡散の背景・ナラティブも考えてみようと思います。

(ファクトチェックの原則として、読者にも検証過程を確認いただけるよう一次資料などのリンクをつけています。ご利用ください。)

普天間飛行場は何もないところにできて、その周囲に沖縄の人々が住み着いた(ファクトチェック)普天間飛行場とは

沖縄戦後、米軍は各地の日本軍の飛行場を接収したほか新たな基地や飛行場を建設しました。その一つが海兵隊の普天間飛行場で、米軍はMCAS FUTENMA(Marine Corps Air Station)普天間航空基地と名付けています(米海兵隊)。

面積は480haで、宜野湾市の面積の24.3%を占めます。宜野湾市の東西南北を断ち切るように市域の真ん中に占めており、街づくりから交通まで大きな障害になっています(宜野湾市「まちのど真ん中にある普天間飛行場」)。

宜野湾市の中心を占める米海兵隊・普天間航空基地(沖縄県のウェブサイトより)宜野湾市の中心を占める米海兵隊・普天間航空基地(沖縄県のウェブサイトより)

2800mの滑走路を持つ飛行場は即時対応力のための訓練の場であり、大型機からヘリコプター、垂直離着陸機のオスプレイまで毎日離着陸を繰り返しています。2024年度は、防衛省沖縄防衛局が目視調査を開始して以降2番目に多い1万7853回でした(沖縄タイムス)。

事故もたびたび起きており、米軍機関連の事故は、復帰から2023年までに898件起きています(沖縄県「基地がもたらす環境問題、事件・事故」)。

2004年8月沖縄国際大学構内に大型ヘリが落下炎上しました。2017年12月には、基地そばの保育園と小学校校庭に相次いでヘリが部品を落下させました。いずれも子どもたちのすぐそばでした。

基地を取り囲むように住宅や学校が密集していて、世界一危険な基地と言われています(防衛省)。

2017年12月13日 宜野湾市立普天間第二小学校校庭にヘリの窓が落下(写真・宜野湾市)2017年12月13日 宜野湾市立普天間第二小学校校庭にヘリの窓が落下(写真・宜野湾市)普天間基地返還は県内での代替施設建設が条件となった

1995年、三人の海兵隊員による少女暴行事件が起き、沖縄全島で怒りの声が上がりました。この事件をきっかけに当時の大田昌秀沖縄県知事が、米軍基地用地の継続使用のための代理署名を拒否する事態になり、日米間の大きな政治問題となりました。

1996年、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使の間で普天間基地を5〜7年の間に全面返還することに合意しました(防衛省「SACO最終報告の概要」)。しかし、代替施設を本島北部の東海岸(名護市辺野古沖)を埋め立てて建設することが条件となり、混迷することになります。この新基地建設の是非を問う県民投票や争点になった国政選挙で、いずれも建設反対が多数を占めたにも関わらず、国は辺野古埋め立てが唯一の解決策であるとして、工事を強行しています。

検証対象「普天間基地は田んぼのなかにあった。周りには何も無い。そこに商売になるということで住みだした」

2015年6月自民党本部で開催された若手国会議員の勉強会で、作家の百田尚樹氏が「普天間基地は田んぼのなかにできた。周りには何もない。そこに商売になるということで住みだした」と発言(琉球新報)。

この発言が報じられると、沖縄では全くの誤りだとしてすぐに抗議の声が上がり、普天間基地のある宜野湾市議会は全会一致で抗議決議を出しました(沖縄タイムス)。

普天間基地はどのようにしてできたのか

1945年3月、米軍は慶良間諸島に上陸後すぐに沖縄における行政の停止を宣言して軍政を開始しました(ニミッツ布告)。同時に、戦闘を続けながら住民を収容所に入れていきます(毎日新聞)。

沖縄戦は、6月23日に県民12万4000人を含む20万人以上の死者を出して組織的な戦闘が終了しました(総務省)。米軍は、住民が収容所にいる間に宜野湾村(当時)の土地を接収して、すぐに基地の建設を始めたのです。下記の写真は、日本が降伏する前の6月に撮影されたものです。

普天間基地を建設するアメリカ軍(1945年6月)ブルドーザーの背後に松並木が見える普天間基地を建設するアメリカ軍(1945年6月)ブルドーザーの背後に松並木が見える検証過程米軍上陸以前には村役場や学校があった

基地に普天間の名前がついていますが、普天間集落は宜野湾村の北の端にあり、集落としては主に宜野湾村の字宜野湾のほか、神山、新城、中原といった地域が接収されて飛行場が建設されました。

そのうち、字宜野湾は村の中心で、村役場、小学校があり、湧水が豊富で畑作も盛んでした(Yahoo!ニュース・琉球新報「沖縄戦と、その後」)。これは、筆者が字宜野湾にお住まいだった玉那覇祐正さんに直接伺っています。

1944年10月時点で宜野湾村には1万3600人の住民がいました(総務省)。現在の普天間基地の真ん中にあたる字宜野湾は村の中心部(宜野湾市「戦前の宜野湾村の様子」)。

字宜野湾には、並松(ナンマチ)と呼ばれた6キロに及ぶ松並木が那覇と国頭(沖縄本島北部)を結ぶ街道沿いにならび、名所となっていました。

沖縄県「模型で見る昔の風景」より 実物の模型は宜野湾市立博物館で展示されている沖縄県「模型で見る昔の風景」より 実物の模型は宜野湾市立博物館で展示されている安倍元首相、岸田前首相が答弁で「何もないところにできた」を否定

国会でも、2023年11月22日に開かれた衆院予算委員会で岸田文雄首相は、共産党の赤嶺政賢議員の質問に以下のように答えています。

「戦前、普天間飛行場の場所、役場や国民学校、郵便局、病院などが所在した、街道が通っていた、さらには、集落が所在する、田畑が広がっていた、こういった話を聞きました。そして、戦時中、昭和二十年四月、米軍が上陸した後、土地を接収し、普天間飛行場が建設された、こういった歴史をたどったと承知をしております」(第212国会 衆院予算委員会議事録)

これより前の2015年7月の衆議院本会議でも当時の安倍晋三首相がほぼ同じ答弁をしています(第189回国会議事録)。

判定

人々の証言や、国から沖縄県、宜野湾市の記録や資料、国会での首相答弁から、普天間飛行場建設前には、村役場や学校、多くの人が住んでいたことは明らかで、「普天間基地は何もないところに造られた」は、誤り。

あとがき

この「普天間基地は何もないところにできた、そこに人々が住み出した」という言説は度々拡散します。

2022年10月には、ネット掲示板「2ちゃんねる」の開設者ひろゆき氏がYouTubeで「沖縄の場合はもともと、普天間基地があって、その普天間基地の周りに住宅を作ったすよね。普天間の周りってもともと何もなかったところだったんですけど、基地の需要があったり、米兵だったりとか、基地で働く人の需要があったりして、結果として住宅街ができてしまった」と発言しました。

沖縄の基地の成り立ちをめぐる誤った情報は、それを信じる人々と長年基地に苦しんできた沖縄の人々とを分断することになり、沖縄県の基地負担軽減を進める上で大きな障害になりかねません。米軍の駐留が、国家間が結んでいる日米安保条約に基づいている以上、課題解決のためには正しい情報を踏まえなければ、議論の起点に立つこともできません。

「沖縄の人は基地で食べている」(ファクトチェック)検証対象「沖縄の人は基地で食べている」「沖縄の経済は基地に依存している」

この言説も繰り返し拡散しています。沖縄の経済は米軍基地の存在に大きく依存しているというものです。基地があるから沖縄が成り立っている、その存在がないと食べていけないのに基地に反対しているなどもよく語られることがあります。

2017年から使用されることになっていた現代社会の教科書に「沖縄は基地に依存している」という記述があり、沖縄県からの抗議で訂正されたことがありました(琉球新報)。

これらの言説も、沖縄の基地負担の軽減を図る上で大きな障害になりかねません。基地の存在がもたらす課題が共有できなくなるからです。

検証過程県民総所得と基地関連収入

まず、沖縄経済の基地への依存度を調べてみます。

日本にある米軍基地(専用施設)の70.3%が沖縄県に集中しており、県面積の8%、人口が集中する沖縄本島に絞ると15%を占めます。大規模な海兵隊部隊(キャンプハンセン)とその補給基地、そして海兵隊の航空基地(普天間基地と伊江島補助飛行場)、極東最大の空軍嘉手納基地などを中心に米軍専用施設が31箇所あります。

沖縄の米軍基地 防衛省のウェブサイトより沖縄の米軍基地 防衛省のウェブサイトより

沖縄県内での米軍に関連する収入は、基地の土地に対する地代(軍用地料)、基地で働く人の給料、基地や将兵、軍属、その家族へのサービスなどで得られるものです。

令和元年度は、軍用地料が881億円、軍雇用所得は540億円、軍への財・サービス提供では1127億円、その他163億円で2712億円となっています。沖縄県民総所得が4兆6333億円なので基地関連収入は全体の5.5%となります(沖縄県「米軍基地と沖縄経済」)。

沖縄県「米軍基地と沖縄経済」より沖縄県「米軍基地と沖縄経済」より

米施政下の1965年はその割合が30%を超えていて、復帰の年1972年は15.5%でしたが、1990年以降は5%台で推移しています。

5%台をどう考えるか

5%台とはいえ、軍用地料収入を頼りにする人、軍に雇用されてその収入で生計を立てている人が一定程度います。米軍基地周辺で主に将兵や軍属、その家族を相手に商売をしている人もいます。米軍基地の従業員は、およそ9000人です(読売新聞)。

軍用地料を受け取っている地主の数は約4万8000人で、そのうちの10%ほどは沖縄県外の居住者と見られています(琉球新報)。沖縄県の米軍基地の土地は、個人や字(集落)有地が多く、普天間基地には4200人の地権者がいます。

軍用地料をめぐっては、地主は大金を手にしているという言説が度々拡散しますが、一人あたりの軍用地料の年額は、57.4%が100万円以下、100万円から200万円が19.9%(平成27年度)と、4人に3人は200万円以下です(沖縄県「米軍基地と沖縄県の経済、財政」)。

沖縄県「米軍基地と沖縄県の経済、財政」より沖縄県「米軍基地と沖縄県の経済、財政」より

こうして見てくると、基地の存在によって収入を得て、生計を立てている人は確かにいます。ただ、「沖縄の人が基地で食べている」というならば、県民の多くや県財政が基地の存在に頼っているかが問われます。

県内の軍用地主と基地従業員をあわせると約5万6000人、県人口は146万人余りなので、基地に頼っている人は県民の一部ではないでしょうか(沖縄県の推計人口)。

返還基地の跡地利用の経済効果

一方、基地がなくなるとどうなるのでしょうか。復帰後、基地が返還されたことで、跡地利用の進んだ地域で見てみましょう。

那覇新都心地区

那覇市北部にあった「牧港住宅地区」(米軍が戦後に住民を追い出して強制収用した)は、1987年に全面返還されて「那覇新都市地区」として再開発されました。今の沖縄都市モノレール線おもろまち駅から西に広がる地域です。住宅や商業施設、病院や行政機関などが整備されて、この地域の経済価値は高まりました。同時に、仕事を得る人も増えました。米軍施設時代の雇用者は168人、新都心に整備されてからは15000人と93倍になり、経済効果は32倍になったと沖縄県が試算しています。

桑江・北前地区(北谷町美浜タウンリゾート アメリカンビレッジなど)

沖縄の若者や観光客、米軍人、軍属とその家族にも人気のある北谷町「アメリカンビレッジ」は、基地時代の100倍以上の経済効果をもたらしたと県が試算しています。かつてここには米海兵隊ハンビー飛行場がありました(沖縄県「キャンプ瑞慶覧(ハンビー飛行場)」。

沖縄県「既返還駐留軍用地における経済効果」より沖縄県「既返還駐留軍用地における経済効果」より

沖縄県は、基地であり続けることは都市機能、交通、土地利用の大きな阻害要因だとしており、跡地利用が進めば沖縄経済に大きな効果をもたらすとしています(沖縄県「米軍基地と沖縄経済、財政」)。

ただし、基地返還後の跡地利用には大きな課題があります。基地に使用されてきた土地はすぐに活用できるようにならないのです。

再開発のための土地区画整理事業を策定、実施しますが、地権者や行政が話し合いを続けて開発の案を練り上げなければなりません。数多くの地権者の意見をまとめ、合意して開発案を定めて新しい街を生み出すには時間がかかります。那覇新都心地区は、返還から事業完了まで18年かかりました(沖縄県 「返還跡地の事例紹介」)。

判定

「沖縄の人は基地で食べている」は、県民総所得に占める基地関連収入が5%台であること、軍用地主や基地雇用者は4%弱であること、さらに基地の返還が進み跡地利用が進めば、その経済効果(その土地が生み出す生産や雇用)は基地だった時よりも十数倍から数十倍になっていることから、誤りだと判定します。

あとがき(沖縄に関する偽・誤情報の背景として)踏まえておきたい沖縄の戦後史について

沖縄戦で人口の多かった本島南部は破壊し尽くされ、平坦で利便性の高い土地の多くは米軍に接収されました。終戦後しばらく、米軍基地や米軍向け住宅施設の建設、米軍将兵、軍属、その家族の消費に多くの沖縄の人々が頼る時代がありました。

それは、米軍施設がないために域内に投資がなく飢え死にする人が出たほど困窮し、そのために激しい復帰運動を繰り広げて、いち早く施政権の返還が実現した奄美諸島を見ることでもわかります(鹿児島県「シマ(奄美)の歴史」)。

一方、戦後の沖縄が基地依存になったのは、統治した米国の方針によるものでもありました。この方針で、戦後わずかにでも沖縄で起こった製造業は次々に姿を消しました。

1950年にアメリカは、沖縄で流通するB円と円の交換レートをB円を3倍に切り上げたのです。これは、沖縄の製造業が、業種別にドルとB円の交換レートがいくらなら成立するかを調べた上での措置でした(極東軍司令部 琉球列島経済調査)。ほぼ全ての製造業が成り立たないレート(1ドル=120B円)にされました。いわば超円高レートで、モノは作るより輸入した方がよく、米軍は、製造業にいた人々を基地労働者として確保、さらに基地の建設資材を安く域外から入れられるようになりました。これで、沖縄の基地依存、輸入経済の体質が固定化されました。

反対に、日本本土は1ドル=360円の円安の固定相場で、モノは作るそばから輸出でき、復興が進み、同盟国アメリカの伴走者になりました。アメリカドルと日本円が、戦後の日本と沖縄の経済のありようを規定したのでした(牧野浩隆 「戦後復興の初期条件と沖縄経済」)。

その後、復帰が近づくと琉球政府の屋良朝苗行政主席は、基地依存から脱却し、自立経済を確立したいと、外国資本を導入して製造業を発展させようとしました。しかし、日本政府は民族資本保護を理由に琉球政府や進出する外資に圧力をかけて外資導入を阻止しました。沖縄に入った外資が復帰後居座ることを嫌ったのです(琉球銀行「戦後沖縄経済史」)。

一方、1950年代、基地の拡大で強制的に新たな土地を接収した上で、米国民政府が軍用地に対して一括支払い方式を提案、永久使用を図ろうとしました。これに対して人々は島ぐるみ闘争を展開、一括支払い方式を撤回させました。沖縄の人々は、その後も懸命に自治権の拡大や復帰運動を進めて、1968年には琉球政府行政主席の公選も実現しました。

このように沖縄が、長く日米両国の都合で大きく翻弄されたことを踏まえる必要があるのではないでしょうか。拡散する沖縄に関する偽・誤情報に対しては、ここに至るまでの歴史を踏まえて検証を進めるということです。

危惧される沖縄と本土の分断

基地の整理縮小を求める声、辺野古新基地建設反対に対しては、2012年の普天間基地へのオスプレイの配備開始頃から、誹謗中傷や誤った情報が多く拡散するようになりました。このことは、沖縄の人々を傷つけ、本土と沖縄の分断に繋がっています。

復帰後から沖縄で世論調査を続けているNHK放送文化研究所のデータからもわかります。「本土の人は沖縄のことを理解しているか」という問いに、沖縄の人々の半数以上が、本土の人は理解していないと答え続けています(NHK放送文化研究所「本土復帰から50年、沖縄はどのような道を歩んできたか」)。

NHK放送文化研究所「本土復帰から50年、沖縄はどのような道を歩んできたか」より 普天間基地にオスプレイ配備が始まった2012年は「理解していない」が最も多いNHK放送文化研究所「本土復帰から50年、沖縄はどのような道を歩んできたか」より 普天間基地にオスプレイ配備が始まった2012年は「理解していない」が最も多い

沖縄の基地問題などで誹謗中傷やデマの投稿、発言をする人の中には、日本の安全保障を軍事力に強く求め、「地政学的に沖縄における軍事機能の維持強化は欠かせない」と考える人が多くいます。そうしたナラティブがあることも踏まえながら、激しい地上戦、アメリカ支配、軍事基地化という本土の人からすると想像を超える負担をしてきた、沖縄の人々の自己決定権の尊重や負担軽減に、私たち皆で取り組むべきではないでしょうか。

ここで取り上げたような誤った情報に対しては、拡散するたびに検証してその結果を広く共有する営みは欠かせないと思います。

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