震災・原発事故14年 安藤結衣アナウンサーが見た福島のいま



午後LIVEニュースーンでサブキャスターを担当しています、安藤結衣です。

私は2018年にNHKに入局しました。初任地は、福島放送局でした。

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から14年。

福島を離れて3年たち、福島の人たちがいまどのような思いですごしているのか、再び取材しました。

(午後LIVE ニュースーン サブキャスター 安藤結衣)



福島ですごした4年間

初任地、福島放送局で勤務した日々は、わたしの原点です。


初めての取材で出会った富岡町のサーファーの方々、中継などで何度もお邪魔した天栄村のみなさん。浜通り中通り会津と、県内さまざまなところにお邪魔して、地域の話題を伝えてきました。

社会人としてもアナウンサーとしても未熟だったわたしを、福島のあたたかい人たちが見守ってくださった4年間でした。

そんな福島のみなさんと過ごしていると、誰もが忘れられない出来事として話してくださるのが、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の経験です。わたしが赴任したのは、震災から7年ほど経ったときでした。

発災当時は岐阜県で過ごしていて、当時の東北の様子をテレビなどでしか見ていなかったわたしは、福島に来た当初、どうやって話を聞いていいのかわからず、戸惑いました。お話を聞く中で、涙を流しながらも当時のことを教えてくださる方もいて、つらい経験を思い出させてしまうことが申し訳ないとも感じていました。

しかし、福島でさまざまな方と話していくうちに、「つらいけど思い出すから、目の前のあなたに知ってほしい。そして誰かに伝えてほしい」という思いを持っている方にたくさん出会いました。それからは、どうか教えてくださいという気持ちで、たくさんの方々の思いを聞き、伝えることに力を入れるようになりました。

町に戻っても、戻らなくても(楢葉町 2018年)

そんな中、2018年に出会ったのが、楢葉町の高原カネ子さんです。


面積のほとんどが福島第一原発から20キロ圏内にある楢葉町では、原発事故発生の翌日、すべての住民が避難を余儀なくされました。住民たちは、30キロ以上離れたいわき市などへ移動し、バラバラになりました。

その後、震災からおよそ4年半経った2015年の9月に、町の全域で避難指示が解除されました。


高原さんはいち早く町に戻って、町を盛り上げる活動をしていました。

一方で、避難指示が解除されたからといって、震災前に町に暮らしていた人すべてが町に戻って暮らせる訳ではないということも教えていただきました。

高原さんに紹介していただいたのが、友人の矢内洋子さんです。


矢内さんの自宅は津波で流されました。以前、自宅のあった場所を案内してもらいましたが、草が生い茂っていました。

矢内さんは、楢葉町内に家を建てたり借りたりするなどして町に戻りたい気持ちはあったそうですが、震災後に移り住んだいわき市に住み続けることを決めていました。理由をたずねると、「楢葉町に戻りたい気持ちもあったよ。だけど息子家族と別れて一人で戻ってきたら年取ってから困るでしょ。だから、帰りたい気持ちは我慢して一緒に住んでいる」と教えてくれました。

矢内さん以外にも、避難生活が長引く中で、町に戻りたいのにさまざまな理由で諦めた方がたくさんいました。

高原さんは、矢内さんのように町に戻らない方も、町のみんなとつながっていられるような活動を続けていました。そのひとつが着物を再利用して布小物を作る活動“ほのぼの”です。


当初は仮設住宅の集会所で近所の人とコミュニケーションを取ろうと始まった活動でした。避難指示が解除されたあとは、週に一度楢葉町に集まって、みんなで話をしながら縫い物をしています。

高原さんは「次に会えるまで一緒に何かを、それぞれの家で縫っている。苦しみを癒すために同じ縫い物をやっていると、まるで同志みたいな気持ちになった。この避難生活の中で学んだことの1つが、やはり人はひとりでは生きていけない、ということだった」と話していました。

離れていてもつながれる時間(楢葉町 2025年)

福島局に勤務していたときからこの活動には何度かおじゃましているのですが、先日(2025年2月)、およそ3年ぶりに会いにいきました。


みなさん今も変わらず週に一回集まって、元気に活動を続けていました。

矢内さんも、82歳になる今もいわき市から50分かけて通っていました。「いわき市の自宅で日中は一人だからずっとテレビばかりつけている。周囲も知らない人だから近所を歩くこともない。この活動があってよかった」と話してくれました。


この会では、現在も23人中6人がいわき市などの町外から通っています。

代表の高原さんは、「一時的な支援だけではなく、それぞれが家にいるときも、離れているときもつながりを感じられることが大切だ」と話していました。

ほのぼのの皆さんは、現在、全国の被災地にも縫い物を送る活動を行っています。

縫い物を活用してほしいという思いだけではなく、「離れていてもつながれることは心の支えになる。こうやってわたしたちは14年間乗り越えてきたということを同じ思いをしている人にも伝えたい」と話していました。

失いたくない ふるさとの記憶(大熊町 2021年)

震災と原発事故の発生から10年経った2021年に出会ったのが、大熊町の鎌田清衛さんです。


大熊町は、福島第一原発が立地する自治体です。

大熊町で梨農家として生計を立てていた鎌田さん。父から受け継ぎ大切にしてきた畑や自宅は、原発事故のあと立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域となり、生活の基盤を失いました。


さらに、自宅のあった場所は除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設となり、最大で2045年3月までは住むことができない見込みになりました。大熊町から車で2時間ほど離れた須賀川市で避難生活を送っています。

そんな鎌田さんが行っていたのが、ふるさと大熊町の歴史を残す活動です。


帰還困難区域となった地域に許可をとって立ち入り、石碑などの記録をとったり町に通って町内外の人に町の歴史について語り継ぐ活動を行ったりしていました。

わたしも、当時、鎌田さんが大切にしてきた神社を案内してもらったことがあります。震災から10年経っても、地震の揺れで崩れた神社がそのままになっていました。草も生い茂っていて、かき分けながら進んでいくしかありませんでした。

ふるさとへの思いは次の世代へ(大熊町 2025年)

今回(2025年2月)、鎌田さんにもおよそ4年ぶりに会いにいきました。


現在も須賀川市で暮らしていましたが、82歳になる鎌田さんの気持ちには大きな変化がありました。

ふるさとの歴史を残す活動に区切りをつけることにしていたのです。

「4時間も町を歩いて案内するのは、体力的にも厳しい」と話していました。

久しぶりにわたしも大熊町を案内してもらいました。鎌田さんの自宅や梨農園があった場所は、除染ででた土などが保管されていました。


鎌田さんは、土地を「貸す」という形にしているそうです。「大熊町民である証にしたいからだ」と話していました。

4年前に案内してもらった神社にも再び訪れました。すると、生い茂っていた草は刈られ、神社が整備されていて、とても驚きました。


鎌田さんの活動で、神社を残していこうという声が高まり、地域の住民たちが動いたのだといいます。鎌田さんの活動が形になったことを実感した瞬間でした。

また、活動を受け継ぎたいという若い世代にも出会いました。震災後に東京から大熊町に移住した、佐藤亜紀さんです。


佐藤さんは、鎌田さんのふるさとを案内する活動に何度も参加していて、サポートを続けてきました。鎌田さんの活動の最終日も、話を聞きながら熱心にメモをとっていました。

「鎌田さんと過ごせたことはとてもいい時間で、宝物のよう。町の歴史をずっと大事にしながら残していけるように活動していきたい」と話していました。

鎌田さんは活動の最後に、参加者たちへ次のようなメッセージを残していました。

「大熊町にはたいして有名なところが何もない。ここはお城一つもないし、(武士どうし)人を殺した、殺された、そういうことは全くありませんでした。逆に言えば、何もなかったから平和だったということなんです。何もないことが平和なのだと思います」

まだ終わっていないことを忘れないでほしい

番組では、大熊町の鎌田清衛さんに、中継に生出演してもらって話を伺いました。

中継した場所は、JR常磐線の大野駅から南東に1キロほど離れた場所です。このあたりも鎌田さんの知り合いの梨農園だったと教えてもらいましたが、今は荒れ地となっていて、すぐ近くにはバリケードがもうけられていました。


バリケードの先には立ち入りが厳しく制限されている帰還困難区域が広がっていて、病院や住宅が当時のままになっていました。

鎌田さんはバリケードを見ながら、「震災と原発事故はもう終わったことのように思われているように感じている。バリケードの先のような、今も時間が止まったままの場所があることを全国の人にも知ってほしい」と話していたのが印象的でした。

わたしも今回3年ぶりに福島で取材をして、避難指示が解除された地域に新しい建物が建っていたり、帰還困難区域の中の神社が整備されていたり、町のようすが変わって確実に復興していることを感じました。

一方で鎌田さんが話していたとおり、いまも、当時のまま整備されていない地域があることや、ふるさとに帰ることができない人がたくさんいることも改めて実感しました。

また、定期的にふるさとに通っている鎌田さんや楢葉町のみなさんも、年齢を重ねていて、「いつまでこうして町に通うことができるかな…」という声が聞かれました。時間とともに、ふるさとに戻って暮らすことだけでなく、ふるさとに通ってつながりを持ちつづけることもむずかしくなっている現実も目の当たりにしました。

今回も取材を通じて、これからも、福島の人たちから教えていただいたことを忘れず、声を聞き続け、さまざまな形で伝え続けていきたいと改めて感じました。みなさんにも、どうぞ福島のこと、東北のことを少しでも知っていただけたらと思います。

(3月3日 午後LIVE ニュースーンで放送)

午後LIVE ニュースーン サブキャスター
安藤結衣
2018年入局
福島放送局、広島放送局を経て、午後LIVE ニュースーンのサブキャスターを担当
4月からは首都圏ネットワークのキャスターを担当予定

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