自然豊かな十和田湖や奥入瀬渓流の観光地としての魅力を全国に発信した文人、大町桂月(おおまち・けいげつ)の没後100年をしのぶ式典が、晩年を過ごした蔦温泉で開かれました。

大町桂月は、明治から大正にかけて活躍した現在の高知県高知市出身の文人です。

明治41年に発行された雑誌『太陽』に掲載した紀行文の中で、十和田湖や奥入瀬渓流を訪れた際に感銘を受けた自然の豊かさを紹介し、観光地としての魅力を広く発信しました。

6月10日は、桂月が亡くなってから100年目の命日で、晩年を過ごした十和田市の蔦温泉では、桂月の子孫や功績を語り継ぐ団体の関係者などが集まりました。

参加者たちは、まず、温泉宿の近くにある墓を訪れ、焼香をして追悼をささげました。

式典では、子孫を代表してひ孫の大町芳通さんが「100年という節目を皆さまと迎えられて大変喜ばしく思います」と挨拶したあと、桂月が好きだった日本酒が供えられました。

式典の最後には桂月が残した『極楽へこゆる峠のひと休み蔦のいで湯に身をば清めて』という辞世の句を全員で読み上げ、功績に思いを馳せていました。

大町芳通さんは「桂月は自然や美を思ったまま文章に残してきた。この素晴らしい十和田湖や奥入瀬渓流をみんなで協力して、この先の未来に残していきたい」と話していました。

【詩人や随筆家として活躍した大町桂月】
大町桂月は、1869年、明治2年1月に、当時、土佐国と呼ばれていた現在の高知県高知市で生まれました。

裕福な家庭ではなかったものの、苦学のすえ、明治26年に、東京大学国文科に進学すると、その文才が開花し、詩人や随筆家として活躍しました。

初めて十和田を訪れたのは明治41年で、当時在籍していた出版社の編集長で五戸町出身の鳥谷部春汀から誘われたためでした。

桂月は、仲間たちと、東京・上野から八戸まで北上し、十和田湖や奥入瀬渓流などを歩いて回り、そこで受けた感銘を記した紀行文が当時、発行された雑誌『太陽』に掲載されました。

紀行文には「十和田湖の勝景の大要をあげむに『山湖』として最も偉大なること。奥入瀬渓流の幽静、天下無比なること」などと記され、山に囲まれた十和田湖の雄大な景色や、奥入瀬渓流の自然の奥深さが、国内でも唯一無二のものであると全国に発信しました。

その後も、桂月は、何度も十和田を訪れ、こよなく愛していた蔦温泉で晩年を過ごし、100年前の1925年、大正14年6月10日に56歳で亡くなりました。

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