We Love みちのくWe Love みちのく東北総局長 三室学
 宮城県多賀城市の特別史跡・多賀城跡にある奈良時代の石碑「多賀城碑」が、国宝に指定されることになった。西暦724年(
神亀(じんき)
元年)に陸奥国府が置かれた多賀城は今年、創建1300年を迎える。貴重な石碑を見て悠久の歴史に思いをはせようと、みちのくのはじまりとも言える町を訪ねた。

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多賀城碑が収められた覆堂(おおいどう)。後方が復元された南門(なんもん)多賀城碑が収められた覆堂(おおいどう)。後方が復元された南門(なんもん)

 奈良の平城宮跡、福岡の大宰府跡とともに日本三大史跡に数えられる多賀城跡へは、仙台市中心部から車で約30分。今回は、JR仙台駅から東北線で14分の国府多賀城駅前にある東北歴史博物館が開催する「多賀城跡巡り 多賀城政庁跡コース」に参加してみた。
 学芸員の小野章太郎さん(47)の案内で、他の参加者約20人とともに同博物館を出発。多賀城碑へと向かって歩く途中、土を突き固めて積み上げた「
築地(ついじ)
塀」の跡を通過する。一辺約900メートルもあったという多賀城は、高さ4~5メートルの築地塀や材木塀で囲まれ、遠くを見渡すための
櫓(やぐら)
が何か所もあったという。ここがかつて東北地方に住んでいた
蝦夷(えみし)
制圧のための軍事拠点であったことがよく分かる。
復元された多賀城南門。白壁と朱色の柱が荘厳な印象復元された多賀城南門。白壁と朱色の柱が荘厳な印象
 築地塀に沿って小高い丘に登ると、城の入り口に復元された「
南門(なんもん)
」が見えてくる。高さ14メートルの中央部はすでに完成しており、白壁と朱色に塗られた柱、瓦
葺(ぶ)
きの二重屋根は荘厳なたたずまいで、国府の表門にふさわしい威圧感がある。瓦は奈良の業者に特注し、壁は土塗りと、再建ではなくまさに「復元」。両側の築地塀はまだ造成中だが、完成後にこの門をくぐれる日が待ち遠しい。

 いよいよ、お目当ての多賀城碑と対面する。格子で囲まれた
覆堂(おおいどう)
の中に収められた高さ248センチ、最大幅103センチの
花崗岩(かこうがん)
質砂岩の石碑は、762年(天平宝字6年)、陸奥守・藤原
朝●(あさかり)
(●=けものへんに葛)が多賀城を改修したことを記念して立てられた。平らに磨かれた表面には11行140字が刻まれており、最初の5行には多賀城の詳細な位置が記されている。
国宝に指定されることになった多賀城碑国宝に指定されることになった多賀城碑 京を去ること一千五百里
 
蝦夷国(えみしのくに)

界(さかい)
を去ること一百
廿(にじゅう)

 
常陸国(ひたちのくに)
の界を去ること四百十二里

 
下野国(しもつけのくに)
の界を去ること二百七十四里

 
靺鞨国(まっかつのくに)
の界を去ること三千里
 京は平城京、蝦夷は宮城県北地域、常陸は茨城県、下野は栃木県、靺鞨は中国東北部を示す。当時の一里は約535メートルで、換算するとそれぞれ約800キロ、64キロ、220キロ、147キロ、1600キロ。多賀城跡から平城京までをスマホでルート検索すると、常磐道、東名高速などを経由して829キロと出るから、古代の人々の距離測定はかなり正確だ。
 次の5行には、724年に多賀城が設置されたこと、762年に改修したことなどが記されている。これらの創建年代は古代の正史「
六国史(りっこくし)
」にも記載がなく、多賀城碑は歴史を裏付ける唯一の証拠だという。
城前官衙(じょうまえかんが)の主屋で説明する小野学芸員城前官衙(じょうまえかんが)の主屋で説明する小野学芸員
 一方、多賀城碑の歴史的価値は、歌枕「
壺碑(つぼのいしぶみ)
」として、数々の和歌に詠み込まれているところにもある。
 西行や源頼朝などの和歌の主題にもなっている「壺碑」は、古代の東北地方にあったとされていたが、多賀城が11世紀中頃には機能を失ったこともあり、碑の正確な位置はもちろん、本当に存在したのか、歌の世界だけの幻なのかさえ長く謎に包まれていた。 江戸時代初め、土中から多賀城碑が発見されると、「壺碑が見つかった」として大ニュースになった。「黄門様」でおなじみの水戸光圀が調査に家臣を派遣し、仙台藩主・伊達綱村に修復と覆堂の建立を頼んだというから、当時としては歴史的大発見だったのだろう。松尾芭蕉もこの碑に立ち寄った感動を「奥の細道」につづっており、井原西鶴の作品にも登場する。名だたる文人があがめた歴史の遺物を、手の届きそうな距離で見ることができることに、悠久の浪漫を感じる。左=南大路から政庁跡方向を見上げる、右=北側から見た政庁跡左=南大路から政庁跡方向を見上げる、右=北側から見た政庁跡 今でこそ国宝として注目される多賀城碑だが、不遇な時代もあった。「壺碑」は南部藩(現在の岩手県と青森、秋田両県の一部)にあったと唱える学者の主張や文字の彫り方、書体などへの疑問から、明治以降に真偽論争が展開され、戦前までは偽物説が有力だった。ところが、1963年に始まった本格的な発掘調査で初めて解明された古代の改修工事の事実が、碑に刻まれていたことが判明。後世に造られた偽物なら記されているはずがないとして、本物であると結論づけられた。
 芭蕉が唱えた「不易」(詩の基本である永遠性)に触れたところで碑を離れ、多賀城の中心だった政庁跡に向かう。南門から政庁へと続く南大路は幅13メートルの広さを誇る。右側の丘の上には、古代の役人や軍人が働いていた
城前官衙(じょうまえかんが)
。主屋は柱や
梁(はり)
、小屋組などの構造が復元され、当時の建設様式を間近に見ることができる。
スマホにアプリを入れると、政庁がARで出現するスマホにアプリを入れると、政庁がARで出現する 南大路から自然石が並べられた階段を見上げると、葉を茂らせる大木の間に青空が広がり、かつて東北の行政、軍事、経済の中枢がこの先にあったのだと思うと、胸が高鳴る。約100メートル四方の政庁跡は、礎石や復元された基壇しか残っていないが、200分の1の復元模型が置かれ、スマホにアプリ「歴なび多賀城」をインストールすれば、AR(拡張現実)で再現することも可能だ。 南側に目をやると、たった今見てきた南門や、眼下に広がる仙台平野が一望できる。歴史の教科書に出てきた征夷大将軍、坂上田村麻呂も、ここから城下を眺めていたのだろうか――としばし妄想する。政庁跡から仙台平野を見下ろす。中央が南門。左は城前官衙政庁跡から仙台平野を見下ろす。中央が南門。左は城前官衙
 コースはここまでだったが、個人的に政庁跡からさらに足を延ばしてみた。北東部分の外郭には
掘立(ほったて)
柱式の建物跡や石敷きの道路などがあり、少し離れた場所にある多賀城廃寺跡は、金堂や塔、講堂などが発掘され、史跡公園として整備されている。建屋の復元はされていないが、自然に近い状態であることがかえって想像力を膨らませ、タイムスリップしたような気分になれた。
左=北東部にある堀立柱式の建物跡、右=多賀城廃寺跡にも風情がある左=北東部にある堀立柱式の建物跡、右=多賀城廃寺跡にも風情がある 仙台や平泉などに比べると地味かもしれないが、多賀城の素朴な魅力も味わい深い。今年は11月1日の創建1300年記念式典を始め、講演会や映画祭、ライブイベントなどが目白押しなので、いにしえのみちのくの趣が残る古城を訪ね、「もののあはれ」を感じてみるのもいとをかし。多賀城の歴史については、同博物館や同市埋蔵文化財調査センターの展示でより詳しく知ることができるので、併せて見学することをお勧めします。築地塀跡(左)のそばではアヤメが見頃。6月にはあやめまつりが開かれる築地塀跡(左)のそばではアヤメが見頃。6月にはあやめまつりが開かれる左の政庁正殿はARです左の政庁正殿はARですプロフィル三室 学(みむろ・まなぶ) 1969年、富山県生まれ。92年に読売新聞社に入社し、北海道支社配属。98年に編集局運動部に異動後は、ロサンゼルス特派員時代を含めてスポーツ取材一筋。2023年6月から東北総局長。緑に囲まれた多賀城跡を歩きながら、40年近く前、高校の修学旅行で訪れた奈良県明日香村の遺跡をレンタサイクルで巡ったことを思い出した。

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