八ちゃん堂創業者 川邊義隆さん〈3〉 社会人としてのスタートを切った1960年代前半の日本は高度経済成長期のさなかで、消費が活発になり始めていた。大学卒業後に入社した輸入車販売会社では大阪支社に配属され、営業マンとして多くの企業に出入りして重役に高級外車を売り歩いた。

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輸入車販売会社で働いていた頃の川邊さん(本人提供)輸入車販売会社で働いていた頃の川邊さん(本人提供) この頃、妻の勝代さんと出会って結婚。73年には九州に戻り、福岡市から大分市に拠点を移していた父が経営する自動車販売会社に入社した。将来、後を継ぐことを念頭に、ビジネス本や新聞に目を通す日々だった。経営に関する知識を学ぶ中で感じるようになったのは事業の多角化の必要性だ。

 父に新規事業として、余っている会社の敷地を活用した住宅展示場や日曜大工向けのホームセンターなどを打診した。しかし、「自動車メーカーは川邊家を信頼して販売を任せてくれている。裏切って別の事業に頭を使うことはやめておけ」と首を縦に振ってもらえなかった。 「明治生まれで忠義心が高い」と、一本気な性格を尊敬する一方、新しい事業に挑戦したいという思いは募る。そんなとき、一人の男性客が「移動販売のたこ焼き屋を始めるから、車を売ってほしい」と訪ねてきた。この出会いが、人生を変えた。 それまでたこ焼きは身近なものではなく、子どもの頃に縁日で食べた経験しかなかった。「売れるのだろうか」と思いながらも車を販売すると、男性客は2台、3台、4台と次々に注文を重ねてきた。 その姿にハッとひらめいた。「待てよ、手軽に食べられるたこ焼きは和製ファストフードじゃないか。企業としてブランド化して売り出せば面白いビジネスになる」。70年代はケンタッキー・フライド・チキンやマクドナルドなど米国発祥のファストフードチェーンが相次いで日本に進出し、人気を高めていた。 男性客はその後、店を畳んだが、自らの直感を信じて、父に辞表を提出した。「何を考えているのか、ふざけるな」と反対され、周囲からも引き留められた。そんな中、妻の勝代さんだけは「あなたがそこまで言うのなら」と、そっと背中を押してくれた。 あまりの意志の固さに最終的に父は辞表を受け取った。この時35歳。3人の息子にも恵まれていた。ただ、生活に余裕はなく、貯金はほぼゼロだった。父に助けを求めるわけにもいかず、福岡大山岳部時代の親友に200万円を借り、裸一貫でたこ焼き屋を始めた。

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