八ちゃん堂創業者 川邊義隆さん〈2〉学生時代の川邊さん。1年間のうち3分の1を山で過ごした(本人提供)学生時代の川邊さん。1年間のうち3分の1を山で過ごした(本人提供) 1941年1月、福岡市博多区で生まれた。父は自宅そばの自動車販売会社で営業マンとして働いていたが、この年の12月に太平洋戦争が勃発し、徴兵された。戦況の悪化で福岡でも空襲が激しくなると、母と姉、妹と4人で大分県の山中に疎開した。ビルマ(現ミャンマー)に派兵されて不在だった父の職場の縁だった。

 今でも記憶に残るのは時折、大きな飛行機が上空を横切っていたことだ。敵機だったのかもしれないが、幼心には戦時中であることが分からず、川遊びに夢中だった。近所の人が竹の子やカボチャを分けてくれたおかげで食事には困らなかった。 終戦後、父は無事に帰国して大分まで迎えに来た。抱き上げてくれたが、物心つく前に別れていたため誰だか分からず、不安で号泣してしまった。「戦闘服みたいな服を着た知らないおっちゃんに抱っこされたと思いまして。家族の中ではその後、ちょっと切ない笑い話になりました」と振り返る。 一家は福岡市に戻り、博多区の小学校に入学した。戦後の混乱のさなかだったが、自宅近くを行き来する運送会社の馬車に乗せてもらうのが楽しみだった。福岡商科大付属大濠中(現・福岡大付属大濠中)に進学し、友人に誘われてバスケットボール部に入り、大濠高でも続けた。 しかし、1年生の時に選手ではなくマネジャーの道を打診されたのをきっかけに、興味があった山岳部に転部した。山登り好きの両親の影響だった。放課後は近くの大濠公園を走って体力をつけ、長い休みのたびに大分県竹田市と九重町に広がる「くじゅう連山」や宮崎県の五葉岳に登った。 福岡大に進学後も山岳部に入り、山にのめり込んだ。過酷な山道を歩き進める中で己と向き合い、心身ともに鍛えていった。 部では年に1回、200人前後のダンスパーティーを開き、集めた会費の一部を遠征費に充てた。山に登る前には天候や登山道の情報収集が不可欠で、体調不良者が出た場合の対応まで考えて人員を編成する。「人、モノ、金、技術、情報、時間。山を通じて経営者として頭に置いておくべき要素を自然と学んだ」と語る。 ただ、この時は将来、たこ焼き屋になるとは夢にも思っていなかった。63年に大学を卒業すると、自動車販売会社の経営者になっていた父の後を継ぐつもりで、大手の輸入車販売会社に入社した。

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