たゞ左右の
断(だん)涯(がい)
と
其(その)間(あいだ)
を
迂(う)回(ね)
り流るゝ
渓(たに)水(がわ)
ばかりである。――――国木田独歩「都の友へ、B生より」(1907年)
新緑の万葉公園内を流れる千歳川。町の中心部からほど近い場所に緑豊かな自然の風景が広がる
国木田独歩は記録に残るだけで3回、湯河原を訪れている。最初に訪れたのは1901年(明治34年)。翌年発表した「湯ヶ原より」では淡い恋と失恋が描かれ、恋愛賛歌と言えるようなみずみずしい心情が吐露されている。
都から届いた求婚の便り…武生(たけふ)(福井県越前市)
その後、健康を害して06年、07年と静養のため2年続けて湯河原に滞在した。07年に書かれた「都の友へ、B生より」は作風ががらっと変わっている。 主人公は、以前の湯河原行きで知り合い、ともに渓流釣りを楽しんだ独り暮らしの老人・ボズさんが亡くなったことを知る。2人で訪れた渓流を上り、雨が降りしきる中、悲嘆の涙にくれる。暗い色調を帯びた作品になっているのだ。 「独歩が湯河原を愛したのは、定宿にしていた中西屋の主人が文学好きで温かくもてなしてくれたこと、趣味の渓流釣りを楽しめたことが挙げられます。最初に訪れた後、しばらく間が空きましたが、静養の場として2年続けて訪れたのは、それだけ印象が良かったことの表れでしょう」 湯河原の文学散策を主に担当する観光ボランティアの小口佳都子さん(86)は語る。2人が渓流釣りをした場所は、奥湯河原付近の藤木川だと推測できるという。そこは湯河原駅から徒歩1時間ほどの距離で、木々の緑に囲まれ、川のせせらぎが耳をくすぐる。山あいの自然、素朴なボズさんの人柄、大好きな釣りがいかに独歩の心を弾ませたかがしのばれる。
「きわめて短いこの小説は、『武蔵野』で確立した
緻密(ちみつ)
な自然描写と人の心の動きを巧みに重ねる独歩ならではの文学世界が見事に体現されている。ストーリーの展開も巧みで、あまり知られている作品ではないが、晩年の傑作と言える出来栄えです」
こう評価するのは、関東学院大学教授で文芸評論家の富岡幸一郎さん(66)。自然と同化したかのような
隠遁(いんとん)
生活を送るボズさんへの主人公の共感が凝縮されて描かれているのが効果的で、それゆえ喪失感も生々しく伝わってくるという。
独歩はこの作品を出した翌年の08年6月に不帰の人となった。ボズさんの死に、自身の死の影を重ねていたのかもしれない。終幕の雨の光景が何とも暗示的に思えた。◇
国木田独歩
(くにきだ・どっぽ)
1871~1908年。千葉県生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)中退。1894年に国民新聞に入社、日清戦争の従軍記事で注目される。田山花袋、柳田国男らとの合著「抒情詩」に「独歩吟」を載せ、97年には最初の小説「源叔父」を発表。その後、「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「運命」など傑作を重ね、自然主義文学の先駆的存在として日本文学史に足跡を刻んだ。しかし自ら起こした出版社の経営悪化、倒産が重なって過労から健康を害し、36歳の若さで亡くなった。
文・西田浩
写真・西孝高
緑豊かな温泉街
湯河原町と真鶴町の境にある星ヶ山公園から相模湾が一望できる 湯河原駅から千歳川沿いのバス通りを3キロほど西に進むと旅館が連なる温泉街に到達する。その西側に広がる万葉公園に足を踏み入れると、豊かな緑が広がり、渓流沿いに遊歩道が整備されている。園内にはベンチやあずま屋が点在し、大自然の中でくつろげる。
趣のある旅館などが立ち並ぶ温泉街 バス通りを千歳川の支流、藤木川の上流に向かってさらに1キロほど。そこから脇の小道を上っていくと、うっそうとした森の中に高低差15メートルの不動滝が勇壮な姿を見せる。こちらは夏目漱石の小説「明暗」の舞台になっている。駅から徒歩圏内で山林のピクニック気分を味わえ、数々の自然の景観美に巡り合えることに驚かされる。
国木田独歩の作品にも登場する「豆相人車鉄道」の車両模型。小田原と熱海の間を人が押して乗客を運んだ 「実は湯河原は、東京以外では唯一2・26事件の舞台になったんです」
歴史に詳しい観光ボランティアの児玉静夫さん(86)が教えてくれた。陸軍青年将校が1936年に起こしたクーデター未遂事件だが、この時、湯河原に静養に来ていた天皇側近の牧野
伸顕(のぶあき)
が狙われたという。現場となった老舗旅館の別館「光風荘」は、その資料館となっている。
「8人の襲撃隊がここに宿泊した牧野一行を襲い、護衛官との銃撃戦の末、建物に火を放ったが、牧野らは地元消防団員らの活躍で無事、脱出したのです」 事件後に再建された光風荘内で、児玉さんは当事者たちの動きをたどりながら解説する。
湯河原温泉はタヌキが見つけたという言い伝えがある。タヌキの石像が並ぶ狸福(りふく)神社 湯河原といえば、やはり温泉。宮下睦史・湯河原町観光課長は「開湯の由来ははっきりしませんが、万葉集に詠まれていることから、少なくとも1300年の歴史があります。傷の治癒に効果があり、日清、日露戦争の傷病兵の湯治場にもなりました」と説明する。 万葉公園近くの、日帰り温泉「こごめの湯」を訪ねた。木々に囲まれた露天風呂で足を伸ばすと、心身ともに癒やされていくのを感じた。 ●ルート 東京駅から湯河原駅まで在来線で約1時間40分、特急踊り子号で約1時間15分。町内は路線バス利用。 ●問い合わせ 湯河原温泉観光協会=(電)0465・64・1234[味]地魚の刺し身定食
相模湾を望む湯河原は海の幸の宝庫。地魚を楽しむなら福浦漁港にある「みなと食堂」((電)0465・20・7005)がお薦めだ。魚の移動販売をしていた北村邦子さん(59)が、漁協の倉庫として使われていた建物を気に入り、2011年に開業した。 「毎朝定置網漁で揚がる魚の中から、これはと思うものを選んで仕入れ、そこから自分が食べたい魚定食をイメージしてメニューを決めています」と話す。よって細かい内容や値段は日替わり。煮魚、焼き魚、刺し身、揚げ物などがセットになり、2000円台が中心だ。 人気は刺し身定食=写真=。訪れた日は、イシダイ、ハナダイ、ミノカサゴ、アジ、ワラサがたっぷり盛られ2530円。弾力があり、うまみが凝縮された新鮮な味わいを堪能できた。営業時間は午前11時~午後3時。ひとこと…海も山も楽しめる 湯河原駅から温泉街とは反対側に15分ほど歩くと、磯の香りに包まれ美しい弧を描く相模湾を望める。箱根と熱海という日本を代表する温泉地に挟まれた湯河原だが、開放的な海と緑豊かな山の風情をいっときに楽しめる。少々大げさだが、熱海と箱根のいいところ取りができるすばらしい立地と言えるかもしれない。
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