2026年9月4日 午前7時30分
【論説】第2次世界大戦前後を旧ソ連極東のウラジオストクで過ごした元福井県日・ロ親善協会名誉会長、故戸泉米子さん(1912~2009年)の自伝「リラの花と戦争」(福井新聞社・福井テレビ刊)のロシア語版が現地で復刊した。一人の日本人女性による異国での半生記は、全編が翻訳された18年の初版発行後、ほどなくして完売した。その後も絶えず、極東の人々の間で復刊が待ち望まれていたことには驚きを禁じ得ない。
初版から発行に深く携わった現地の歴史学者、ゾーヤ・モルグンさんは同書の価値について「単なる個人の回想にとどまっていない点」をまず挙げる。
納得できる点は多々ある。書は、1921年に戸泉さんがウラジオストクに渡った後、スターリンの大粛清やソ連の対日参戦、収容所生活を経て46年に帰国するまでを中心に描かれている。その間、戸泉さんは少女から青春期の女性、母親へと人生の階段を歩んでいった。「日本人」としてのバックボーンを忘れず、支えにしてである。
そして時代が取り巻く環境や、人々が背負った戦争の苦しみ、相互理解の必要性を証言の形で伝えようとした。現地の人々とは異なる視点の指摘も随所にある。ロシア人に耳当たりの良い言葉ばかりが並んでいるわけではない。ただ、戸泉さんの思いはどこまでも正直だ。心を揺さぶられる源泉はそこにある。
復刊は、現地の書店が自社の出版部を創設するにあたり、同書を事業第1号に選定し、資金を出したことで実現した。後世に語り継ぐべき書にふさわしいとの歴史的価値が、復刊を望む街の声とはまったく別次元で再確認されたことも興味深い。
日ロ関係は今、第2次世界大戦後最悪といわれるまでに冷え込んでいる。
2022年2月のウクライナ侵攻直後、日本が対ロ制裁に加わったことを理由に、ロシアは北方領土問題を含む平和条約締結交渉の中断を表明した。
先月中旬にはプーチン大統領が北方領土の択捉島を訪問し、実効支配を誇示した。高市早苗首相が「断じて許容できない」と非難するのは当然だとしても、対話の糸口が見つけられない現状は嘆かわしい。
政府間の関係回復が困難だからこそ、戸泉米子という市井の一日本人女性による「旧ソ連史」がロシアの草の根で伝わることには比類なき意義がある。
初版同様、今回もウラジオストクでの千部限定の販売だった。出版元では部数を限定せずにロシア各地で販売したい意向を持っているという。一人でも多くの人の手に渡り、相互理解を深める絆として広まることを願っている。
