大河ドラマ『豊臣兄弟!』の人気をきっかけに、2016年放送の『真田丸』を見直している人も多いと聞き、私も改めて見始めた。その中で気になったのが、本能寺の変で織田信長が討たれた後、混乱する安土城から逃げ出す場面だ。そこでは「井戸の抜け穴」が使われていた。
大阪には、真田幸村にまつわる抜け穴伝説がいくつかあり、玉造にある産湯稲荷神社もその一つだ。今回は、その抜け穴伝説について取材し、調べてみた。
産湯稲荷神社「産湯玉ノ井」へ
産湯稲荷神社はの境内には「産湯玉ノ井」と呼ばれる井戸がある。古くは味耜高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)がこの地に降り立った際に湧き出した清水が始まりと伝えられている。
かつては「日高の清水」「日高真名井の清水」と呼ばれ、のちに大小橋命(オホオバセノミコト)の産湯に使われたことから「産湯の清水」「産湯の玉之井」とも呼ばれるようになったそうだ。

宮司さんによると、この井戸は、かつて良質な水がこんこんと湧き出ていたという。『摂津名所圖會大成』の記述には「水気軽く、佳味にして清澈、外に溢れ四時ともに涸(か)るることなし、所謂、逢坂増井よりも抜群にすぐれたりかや」と紹介されている。
「逢坂」「増井」と言えば、天王寺七名水に数えられる名水として知られる。つまり産湯の玉之井は、そうした名水と比べても優れていると評されるほど、かつては良質な水が湧く井戸だったようだ。

ただ、残念ながら、かつて名水とうたわれた井戸も、現在は地下鉄やビル建設などの影響により水位が下がり、水質も良好な状態ではなくなっている。
飲用には適さないものの、平成8年に有志の協力によって、汲み上げ可能な井戸として復旧されたそうだ。
「産湯の玉之井」の抜け穴伝説
さて、そんな歴史ある井戸には、「抜け穴」伝説も残されている。一説には、真田幸村に関わる抜け穴の一つとも言われているそうだ。ただ、この「真田」という名については、後世の歴史ロマンとして重ねられたもののようにも感じられる。実際のところは分かっていない。

今回は宮司さんにご協力いただき、特別に井戸を見せてもらった。というのも、この井戸には、抜け穴と噂される痕跡が残っているという。

井戸には「文政四年巳歳八月」と刻まれている。西暦でいえば1821年。江戸後期、11代将軍・徳川家斉の時代で、町人文化が華やいだ文化文政時代にあたる。
一方で、幕府社会のひずみも見え始めていた頃でもある。そう考えると、この井戸に残る年号も、単なる数字ではなく、江戸後期の空気を今に伝える小さな手がかりのように見えてくる。

文政なら真田幸村が生きた戦国末期とは時代が大きく離れている。ただし、井戸は時代を経て補修されてきた可能性もあり、この年号もその際に刻まれたものかもしれない。
そう考えると、この刻銘だけをもって「真田幸村とは関係がない」と断定するのは早計だろう。
井戸の中を見ると、かつて良質な水がこんこんと湧き出ていたことを感じさせる痕跡が内側に残っている。水があった高さまで、壁面の色が黒く変わっているのだ。ここに一定の水位が保たれていた時代があったことが分かる。

そこで宮司さんが、「こちらから見てごらん」と声をかけてくれた。
言われるまま北側に向かって井戸の中をのぞき込んでみると、そこには何かをふさいだような、不自然な石組の跡が残っていた。

暗くて分かりづらいため、画像の明るさを少し調整してみると…

井戸の内側に、何かをふさいだような石組みの跡が見えてくる。宮司さんによると、時期は定かではないものの、かつて地質調査が行われた際、この北側へ約50メートルにわたって穴が続いていたという話が残されているそうだ。
ただし今は、下水道管が通っているため、その穴は塞がれているという。現在の宮司さんも、その当時のことを直接知っているわけではなく、「そのように聞いている」という以上のことは分からないようだ。歴史ロマンであり、もはや、立派なミステリーである。
ドラマ『真田丸』のワンシーンで…
ちなみに余談だが、2016年放送の大河ドラマ『真田丸』を改めて見返してみると、安土城から脱出する場面で、井戸から続く抜け穴が登場している。
以下、2枚の画像はそのシーンとなる。
※テレビドラマのワンシーンの画像
もちろん、これはドラマの世界なので、実際に抜け穴が存在したかどうかは分からない。ただ、「井戸」と「抜け穴」という組み合わせは、昔から人の想像をかき立てるものがあるのかもしれない。
※テレビドラマのワンシーンの画像さて、話を元に戻そう。
産湯稲荷神社にある「産湯の玉之井」の抜け穴伝説。先ほど、井戸の北側へ約50メートルにわたって穴が続いていたという話を紹介したが、宮司さんによると、当時、神社の北側には「味原池」があったはずだという。
そう考えると、この穴が大阪城などへ通じる抜け穴だったとは考えにくいのではないか、という話になった。
大阪市立中央図書館デジタルアーカイブ (大阪古地図集成 第18図)原版:明治10年(1877)
本当に抜け穴があったのかは分からない。
仮に何らかの穴があったとしても、それが大阪城へ通じるような壮大な抜け穴だったとは考えにくい。むしろ、周辺の屋敷などに関わる出口だった可能性の方が、まだ現実味がありそうだ。
大阪市立中央図書館デジタルアーカイブ (大阪古地図集成 第18図)原版:明治10年(1877)
しかも、当時の井戸には、豊富な水があったはずだ。
そう考えると、ここを抜け穴の「入口」として使うのは難しかったのではないだろうか。むしろ、どこか周辺の屋敷などから続く穴の「出口」だったのではないか。有事の時には泳いでここに出る想定だった。妄想だが、そう考えると、なんだかワクワクしてくる。
もちろん、事実は分からない。分からないからこそ面白いのかもしれない。大阪には、ほかにも抜け穴伝説が残されている。また、引きつづき取材をしてみようと思う。
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取材協力:産湯稲荷神社
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