写真:喜瀬守昭
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『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で史上初のノンフィクション賞三冠を達成した鈴木忠平さんによるノンフィクション連載「沖縄の英雄 島人たちの甲子園」第6回。1998年晩秋、沖縄尚学野球部は翌春の甲子園出場をほぼ確実にした。監督の金城は部員の中からマネージャーを選ぶ必要があると考えていた。ユニフォームを諦めろと選手に伝える。それは指導者として最大の痛みだった。AERA 2026年6月15日号より。
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自分で決めなさい。誰の声にも流されず、自分で決めなさい──。
喜久山翼(たすく)はいつも、その言葉を胸に刻んでいた。
本島中部東岸のうるま市の出身である。進学の際は地元の高校と沖縄尚学と、どちらに進むか決めかねていた時期があった。親元を離れて那覇へ行くと決めたのは父のくれた一言で踏ん切りをつけることができたからだ。
そして今、あの選択は間違っていなかったと思うことができた。
1998年の晩秋、沖縄尚学は福岡の北九州で行われた九州大会で準決勝まで勝ち上がり、翌春の第71回選抜高校野球大会への出場をほぼ確実にした。沖縄水産をはじめとする県内のライバルを破り、九州地区の強豪とも互角以上に渡り合った。この年代で甲子園に行く──。監督の金城(きんじょう)孝夫と同期のチームメイトたちが掲げた目標は現実になった。
これで実家の両親に報告ができる。あとは自分がグラウンドに立つ姿を見せるだけだった。そう考えると喜久山は、日々の練習へ向かう足取りにも今までより力が漲(みなぎ)ってくる気がした。とりわけ、野球を教えてくれた父に、甲子園の土の上でプレーする姿を見せたいと思った。
実家を離れるまでは父が疎ましかった。横道に逸(そ)れるのを嫌う人で、そんな場面を目にすれば、自分の息子だろうと他人の子供だろうと関係なく叱責した。進んでPTA活動に参加し、通学路や地域の見回り役などを買って出ていた。その中でも熱心だったのが、地域の中学野球部を引退した3年生たちを集めた「育成会」の活動だった。部活が終わってから高校入学までの期間、目標を見失って非行に走る生徒は少なくない。それを防ぐ意味があった。硬式球を使って練習することで高校野球の準備にもなる。父は中部育成会の監督を務めていた。
そんな父のことは級友やチームメイトたちも知っていた。うるさい大人──自分の父親がそう思われていることも、息苦しくなるような忠告も、思春期の青年にとってはすべてが疎ましかった。父に背を向けたこともあった。だが今、高校最後の一年を迎えるにあたって湧いてくるのは、父にユニフォーム姿を、甲子園の舞台に立つ姿を見せたいという思いだった。
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金城は神妙な顔をして言った 頭の中が真っ白になった
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鈴木忠平
すずき・ただひら◆1977年、千葉県生まれ。ノンフィクション作家。著書に『嫌われた監督』『虚空の人』『アンビシャス』『いまだ成らず』他
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