誰かに話したくなる世界遺産のヒミツ
誰かに話したくなる世界遺産のヒミツ(22)「マプングブエの文化的景観」(南アフリカ)
![]()
著者フォロー
フォロー中
2026.3.15(日)
目次
認められなかった黄金交易による“黒人文明”
アパルトヘイト廃止後に蘇った“黄金のサイ”
(髙城 千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)
認められなかった黄金交易による“黒人文明”
足利義満が京に金閣をつくり鏡湖池を黄金に揺らめかせた14世紀に、遠くインド洋の向こう側にあるアフリカ南部の内陸には、金の輸出によって繁栄を極めた国があった。それが「グレート・ジンバブエ」である。
王あるいは首長をもつ強大な国家であったと考えられるが、もはや伝承は失われ文献も一切ない。残された都市遺跡、世界遺産「グレート・ジンバブエ遺跡」(登録1986年、文化遺産)から類推するしかないのだが、それはサハラ以南にあるブラックアフリカ最大の石造構造物なのだ。
3つのエリアから成り、先ず高さ80mの小高い丘の岩盤の上に花崗岩をブロック状に切り出して積み上げただけの囲壁で守られた“宮殿”があった。麓には家屋跡が散在していて、およそ6000戸・人口1万8000を擁したという。そして3番目が丘から南へ700m、最大で高さ11mにおよぶ圧倒的な石の壁が外周ぐるりと楕円状に240mも囲んだ“神殿”と呼ばれる建物だ。これらの石積みには規則性がなく、自由奔放であり、ヘビのように曲がりくねりながら特異な空間を生んでいた。
石の壁に囲まれたグレート・ジンバブエ遺跡
ギャラリーページへ
この都市を拠点にして、周辺から産出する金や象牙をアフリカ東海岸の港キルワ・キシワニへと運び、アラブ商人やインド・中国と交易することで栄えたのだ。それはヨーロッパ人が大航海にのりだす数百年前のことで、インド洋はすでに世界貿易の中心地だった。“ジンバブエ”とは、今も地元で暮らすショナ族の言葉で「石の家」を意味する。かつての栄光の日々の象徴として、1980年の独立に際して国名に冠された。
けれどグレート・ジンバブエ遺跡は、アフリカの地にありながら、20世紀半ばまでアフリカ人のものに成らなかった。西洋人の偏見により「暗黒大陸アフリカの未開な民に、これほど高度な建築物をつくる能力はない」とされたのだ。
そこは旧約聖書の中で、大量の金を産出したオフィールという伝説の都に違いない。アフリカに進出したポルトガル人は、ジンバブエ高原辺りに“ソロモン王の鉱山”が眠っているとして黄金郷(エル・ドラド)の噂を煽り立てる。巨大な石造遺跡は、古代西アジアに起源をもつと主張され、黒人文明について語るのがタブー視されてゆく。
今回紹介する南アフリカ共和国の世界遺産「マプングブエの文化的景観」(登録2003年、文化遺産)は、グレート・ジンバブエが勃興する以前、10~14世紀に黄金交易がもたらす富と農業の発達によって、南部アフリカに誕生した初の王国の“都の跡”である。13世紀末の急激な寒冷化により干ばつが起こり、農耕社会が打撃を受けたことと、グレート・ジンバブエに交易ルートを奪われたが故に、王国は打ち捨てられ……やがて廃墟と化した。しかしマプングブエ王の権威を象徴する“石壁”を発展させたのが、まさに「ジンバブエ=石の家」なのだ。
現在では大河リンポポとシャシ川の合流地点に、川をはさんで南アフリカとジンバブエ、そして中洲にボツワナと、3つの国家に分断されている。乾季には一滴も水が流れない枯れ川とその周りに開けたサバンナ地帯だが、そこだけ巨人がテーブルを置いたような赤茶けた岩山がある。宮廷が配され、貴人たちが住んだ“聖なる岩山”だ。
1932年、白人農場主による調査隊は、その頂にある王の墓から精巧な金細工の数々を発見する。しかし黒人差別による蔑視の時代で、白人優越論に不都合な工芸に思いを馳せる者などいない。黄金のサイ、王杖、王妃の腕輪、純金ボウル……それらは首都プレトリアにある大学の倉庫で、60年間も眠り続けることになった。
