相互理解を深めていくために
 高知市・高知北高3年 マドン・ティリー

 「欧米の人って自己主張がすごいがやろ?」そう敬遠されることもあれば、反対に「ハーフって勉強も運動もできるがでね」などと過大評価されることもあった子ども時代。「外国人やき、私の友だちになって」と言われた時には、正直戸惑った。

 私は、日本とオーストラリアにルーツを持つ、いわゆる「ハーフ」である。グローバル化が進み、国境を越えた人々の交流が活発になったこの頃、高知県でも外国にルーツのある子どもが増えているのではないだろうか。

 幼少期から日本で生活されている漫画家の星野ルネさんは、カメルーン人である外見に対する周囲の先入観で、一方的にレッテルを貼られてしまうことがあるという。学校や電車で、他人に好奇の目でじろじろ見られる経験などを著書でも紹介されており、自分の過去とも重なる部分があった。

 私も3歳の頃から高知で暮らす中で、たびたび複雑な思いを抱いたことがあったが、今まではそれを上手に表現できず、心にしまい込んでいた。だが、この記事を読むと、その感情を言語化するヒントが少し見つかり、一度向き合ってみようと思った。

 冒頭で取り上げたような言葉は、決して相手を傷つける意図で発せられたものばかりではなく、むしろ好意から生まれたものも多い。しかし、こうした言葉の中には、無意識の偏見や思い込みが潜んでおり、知らぬ間に人を傷つけてしまうことがある。

 見た目だけで何かを決めつけられるのが息苦しかった私はかつて、自分のルーツにマイナス感情を持ってしまい、あまり目立たないように努めていた時期があった。言語の壁以上に、偏見の壁は大きい。次第に声を上げるのを諦めることも増え、相手の言葉に違和感を持っても、その人に悪気が感じられない場合は、笑って流すようになっていた。

 ただ、学校は手を差し伸べてくれる自分の居場所でもあった。海外から来た子どもにとって、学校は異国という未知の世界への入口にもなる。小学校低学年の頃にはカルチャーショックを受けることもあったが、先生方が私の個性を大切にしながら、友だちとの相互理解へ導いてくれるなど、温かくサポートしてくださった。

 外国につながりを持つ子どもと一口に言っても、日本語に課題がある子やあまりない子など、境遇はさまざまである。それぞれが未来に向かって健全に成長するために、今後も個別最適な支援が行き届くことを願う。

 神奈川県の県立高校で、外国ルーツの生徒を支援する先生方がおっしゃる通り、共生社会への第一歩はお互いを知ることだと思う。人間は、相手のことがよく分からないと不安や恐怖を感じてしまう。世界の歴史を振り返ってみると、そうした感情が少数派への拒絶や排除、あるいは無関心に結びついてしまうこともあった。

 自分とは異なる文化や価値観を持つ人々に優劣をつけたり、好き嫌いで判断したりしていては、対話は始まらない。お互いが気持ち良く共存していけるよう、相手の立場を想像し、歩み寄ろうとする姿勢が、相互理解へつながるのではないか。これまでよりも一人ひとりの個性が一層尊重されるようになれば、社会全体がより良い方向へ前進するかもしれない。

 私も人と分かり合えず、衝突する時がある。自分と相手の中に存在する偏見と向き合う際には傷つくこともあるが、それを乗り越えた先には、思ってもいなかった景色が広がっていたりもするものだ。試行錯誤しながら人間関係を構築する中で、少しでも分かり合える瞬間があれば、これほど嬉しいことはない。(2025年4月20日・高知新聞「学びはどこに(31)外国ルーツの子どもたち」を読んで)

その値段の裏側にあるもの
 高知市・高知高2年 堅田晃平(かたたこうへい)

 この記事を読んで、普段私たちが何気なく買って食べている食品が、どれだけ手間とお金をかけて作られているものなのかを改めて考えさせられました。「高すぎると買えない、安すぎると作れない」という見出しは、とても現実的で、心に残りました。私の家は農家をしていて、野菜やお米を育てています。だからこそ、生産者の苦労や悩みがとてもよく分かりますし、この記事の内容はまさに今の農業の現状をあらわにしていると思いました。

 記事では、牛乳の生産にかかる費用が年々増えていることがグラフで紹介されていました。二〇二一年から二〇二三年にかけて、費用が上がっているのが分かりました。特に「飼料費」が大きく上がっていて、それが生産者の負担になっていることが伝わってきます。私の家では牛は飼っていませんが、肥料や燃料の値上がりは私たちにも大きな影響を与えています。たとえば、トラクターを動かすための軽油代や、野菜に使う資材の価格が上がると、それだけで収穫できた作物の利益がほとんどなくなってしまうこともあります。

 それでも、消費者が「高いと買わない」と思ってしまうと、値上げをするのもむずかしいという現実があります。この記事にもあったように、「安くないと売れない、でも安すぎると作れない」というのは、まさにその通りだと思います。

 記事の中で、消費者が自分で値段をつける体験をするという取り組みが紹介されていました。これはとても良いアイデアだと思いました。消費者が「これだけの手間と時間がかかっているなら、このくらいの値段がふさわしい」と自分で考えることで、生産の大変さや価値を実感できると思います。私も、もし学校でこういう授業があったら、クラスのみんなに「農業の現実」を知ってもらいたいと感じました。

 生産者の人たちが「このままでは作り続けられない」と言っているのを読むと、とても悲しい気持ちになります。作る人がいなくなったら、私たちは食べ物をどうやって手に入れたらいいのでしょうか。食品はただの「商品」ではなく、人の命や生活を支えるものです。だからこそ、値段についても「安ければいい」ではなく、「その値段がちゃんと生産者の生活を支えられるか」という視点が大切だと思います。

 私の家でも、収穫した野菜を近所の人たちに渡すとき、「ありがとう」と言ってくれると、本当に嬉しくなります。その一言で、「また頑張ろう」と思えるのです。だからこそ消費者と生産者がもっとお互いを知り合い、支え合えるような社会になってほしいと思います。

 これから私は、買い物をするときに、「この食品がどうやって、どんな人が作ってくれたか」ということを想像しながら選びたいと思いました。また、農家の家に生まれた自分だからこそ、できることもあると感じました。まわりの人に、農業の大変さや作物づくりの現実を伝えていくことも、ひとつの大切な役目だと思います。

 もし将来、自分が農業を継ぐことになったら、ただ作物を作るだけではなく、買う人とのつながりも大事にしたいです。「誰がどんな思いで作ったのか」が伝わるような工夫をし、消費者がもっと「作る人」を身近に感じられれば、農業に対する見方もきっと変わるはずです。そして、私自身もこれからもっと農業について知り、学び、考えていきたいです。どんなふうにすれば、作る人も食べる人も笑顔になれる社会に近づけるのか、自分なりにできることを行動に移していきたいです。(2025年4月25日・朝日新聞「高すぎると買えない、安すぎると作れない」を読んで)

畜産のSOS?堆肥が語るその問題
 南国市・高知農業高3年 新谷奏深(しんたにかなみ)

 「ひまわりコーヒーたいひ」「リープル畑」、そう書かれた良心市の隣で堆肥を抱え、にこやかに笑っている山本智士さんの写真が私の目を奪った。

 私は農業高校に在籍しており、「畜産」について学んでいる。そのため、「堆肥」と私は切っても切り離せない関係だといえるだろう。高校では敷地内で鶏や豚、牛などの家畜を飼育しており、それらとふれ合い、管理することで、畜産について学び、理解を深めている。その中でも重要なのは、畜舎の清掃だ。家畜は毎日、多くの糞尿を排泄し、畜舎を汚す。それらを掃除しないと家畜にストレスがかかり、食欲不振に陥る可能性がある。私たちが食べるお肉となる鶏や豚がその状態になった場合、畜産農家にとって痛手となる。また、最悪の場合、病気になって死んでしまうこともある。そうなると、死んでしまった個体に今まで与えてきた飼料代は水の泡となり、収入に大きく響くだろう。飼料代もけっして安くない。畜産を営む農家の気持ちを思うと、胃が痛くなってくる。経営について学ぶことも畜産の大事な学習だ。加えて、近年流行した「高病原性鳥インフルエンザ」この影響で鶏卵が高騰し、なかなか手が出せない時期があった。それらの原因の一つとされるのが、野鳥などの糞便だ。よって、畜舎を清潔に保つこと、それが家畜を管理する上で最も重要なことである。学校の畜舎では、バーンクリーナーと呼ばれる、家畜が排泄した糞尿と汚れた敷料を外に運ぶ装置を使って畜舎を衛生的な状態に保っている。運び出された糞尿は一度、糞尿集積所で保管し一次発酵、次に攪拌機によって堆肥化される。ここで問題となってくるのが、記事にも書いているように「堆肥のにおい」だ。鶏、豚、牛の糞尿が混ぜ合わせられており、鼻が曲がってしまいそうなほどの異臭がする。学校の周辺は住宅に囲まれているので、近隣住民にとってはいい迷惑だろう。堆肥をしっかり乾燥させたりしてにおい対策を行っているが、抑えられている気がしない。だから「コーヒーたいひ」という思ってもいない組み合わせ、コーヒー豆のかすによるにおい対策にはとても驚いた。産業廃棄物を再利用するといったSDGsの活動を先取りする姿勢、確かに畜産はSDGsの活動と密接的につながっていると思う。例えば、「目標3:すべての人に健康と福祉を」これは、近年畜産業界で叫ばれている「アニマルウェルフェア」に関わる目標だと思う。アニマルウェルフェアとは、動物が産まれてから死ぬまでの間、ストレスなく、動物本来の生活をさせてあげようとする考え方のことである。それが低い畜産では菌が繁殖しやすく、病気になりやすいというデータもあるそうだ。そうなると、人にとっても健康的な食事がとれず、福祉的ともいえない。よって、目標は達成できていないといえる。アニマルウェルフェアの考え方を広めていくこと、それがSDGsにつながる活動の一つだと考える。他にも牛のゲップによる地球温暖化の進行など考えるべき畜産問題がたくさんある。それに目を向け、SDGsに取り組んでいきたい。

 この記事から、家畜の糞尿による周辺への被害、SDGsに関する未来への展望について考えた。せっかく農業高校へ入学し、私が所属する畜産総合科含め6つの学科があるため、各それぞれの学科から出る廃棄物を利用し、におい対策につとめるのも学校としての課題であると考えた。私たちが生きる上で必要な野菜などの農産物。それを育てる一つの要素となる堆肥。食と農はこれからも深く結びつき、私たちの生活に関わってくるだろう。私はこれまで以上に農を学び、食を豊かなものにしていきたいと思う。(2025年5月30日・高知新聞「『コーヒーたいひ』いかが」を読んで)

災害と向き合う未来の看護師として
 佐川町・佐川高3年 藤原愛結(ふじはらあゆ)

 「災害が起きたその時、私は『誰かの助けになれる人』でいられるだろうか」。看護師を目指す私が、災害という極限状態の中でも冷静に行動し、誰かの命や心を守れる存在でいられるのかという疑問です。

 「DMAS(災害医療支援学生)」の存在を初めて知り、衝撃を受けました。災害時の最前線に立つのは、医師や看護師など専門資格を持つ人だけだと思っていたからです。学生という立場で、被災地に入り、医療チームの一員として支援に携わっています。「誰かを助けたい」という気持ちは、医療を志す多くの人が心に持っているものです。けれど、その思いを行動に移すのには、大きな勇気と責任が必要です。情報の整理、避難所での対応、医療スタッフの補助など技術ではなく、『人を支える心』が動かしている支援のかたちに看護の本質があると感じました。

 私は今、高知県で活躍できる看護師を目指しています。DMASの学生たちの姿に感銘を受け、自分の医療現場に対する甘さを思い知らされました。高知県では、南海トラフ地震の脅威が常にあり、「もしかしたら」ではなく「いつか必ず」起きる災害です。実際に「その日」が訪れたとき、知識と行動が身についていなければ命は救えません。

 私はこれまでも「看護師として人を助けたい」と思い続けてきましたが、日常の医療を想定したもので、「非常時の医療」については深く考えていませんでした。この記事を通して、看護師が、日常と非日常の両方において人の命を支える存在だと気づかされました。私は誰かを支えることができるだろうか。避難所で不安を抱える人たちに声をかけ、混乱の中で冷静に動くことができるだろうか。自分に問いかけてみると、まだまだ準備が足りないことに気づきました。

 記事の見出しに「学び、貢献したい」とあります。学びは机の上だけではなく、現場で生かして初めて、人を救う力に変わります。DMASの学生たちはそれを実践しています。大人に守られる立場から一歩踏み出し、社会の一員として誰かのために行動する姿は、医療を志す者の鏡だと感じました。看護とは、技術だけでなく、人に寄り添う力、相手を思う心、そして不安や苦しみに共に向き合う覚悟が必要です。災害時の混乱と恐怖の中で、そばにいるだけで救われる人もいます。そうした「寄り添う看護」ができる人になりたいと強く思います。

 南海トラフ地震が発生した際には、地域の医療機関や避難所に多くの支援が必要となります。その時、自分が動けるか、支えになれるか。DMASのような取り組みが全国に広がることで、災害に強い社会が作られていくと感じます。そしてその一員として自分も行動できるよう、日頃の学びを深めていくことの大切さを痛感しました。

 将来は災害時にも頼られる看護師を目指しています。看護・医療系の学校では災害看護への取り組みが強化されています。医療行為だけでなく、心のケアを含めた「その人全体を看る」看護師になるためには、自分ができることを一つ一つ積み上げていくしかありません。学び続け、地域に関心を持ち、参加することです。応急処置や災害看護について理解を深めることはもちろん、地域の防災訓練に参加し、人とのつながりを持つことも立派な「備え」です。そうすることで、未来の患者さんを救う力になると信じています。

 「高知で災害が起きたとき、誰かを支えられる私でいたい。」その思いを胸に、私はこれからも医療について学び、行動できる人を目指したいです。「その日が来る前に、私は行動したい。誰かの命や心を支えられる存在になるために。」(2025年4月22日・高知新聞「学生も災害時医療に参加」を読んで)

黙らないこの思い
 高知市・土佐女子高3年 田中絢土(たなかあど)

 世界の多くの尊い命が、無差別に、まるでもともといらなかったもののように扱われないために現代人がしなくてはならないこと。それは、平和や過去の過ちについて、自分ごととして想像してもらえるよう、世界に働きかけることだ。

 「大量虐殺」という言葉を耳にしても、現代の人々は遥か昔に起きた出来事、どこか知らない国で起きたことだ。と自分から遠いこととして関心を示さないだろう。しかし、それは本当に自分たちに無関係なのか。

 二〇二四年十二月、事件から八十七年となる十三日、江蘇省南京で追悼式典が行われた。そこでは、多くの人が二度とこのような過ちが繰り返されないようにと祈りを捧げた。しかし、どれだけの人がその地面の下に、かつて約二十万人余りの人が平穏に暮らしていた生活の息づかいを感じることができただろうか。戦前、南京では今の私たちと変わらない日常生活が営まれていた。

 日中戦争の最中である一九三七年に、日本軍が南京戦において中華民国の首都である南京市を攻略した後に、数ヶ月間にわたって多数の非戦闘員である一般市民、捕虜、敗残兵を虐殺したとされる事件である南京大虐殺が起こった。

 この象徴的な戦争犯罪である南京大虐殺に関わった日本兵や、中国人被害者の証言を集めてきた在日中国人二世の、林伯耀氏の記事が私の目を奪った。「黙らない」そう強く書かれた紙面には、何とも言い表すことのできない、熱く、そしてどこか冷たい内容が綴られていた。林氏は、この痛ましい事件の被害規模の矮小化や、虐殺自体を否定する論争が起きたことに危機感を覚え、当時現場にいた人々の声を記録すると決め、情報提供を呼びかけた。林氏は、「はやし」と日本風に名乗り、元日本兵の証言を集め五、六年かけ二百人近くを訪ねた。証言者の中には過去の日本軍の行いを悔やむ人もいたが、どう中国人を殺した、どれだけの女性に性的暴行を加えたか、自慢のように話す人もいたそうだ。

 今でこそ、世界唯一の被爆国として日本は核軍縮や不拡散を謳っている。しかし、たとえ戦争というカタチでなくても、過去に痛ましい悲劇の「加害者」という立場にいたことに、決して目を背けてはならないと私は思う。戦争には真の正義というものはなく、簡単に逆転する。林氏は様々な思いを抱えながら、時には怒りを抑えながら記録を続けた。

 幼い頃から父の影響もあり、戦争遺跡の見学や、被爆者の生の声を拝聴し日本の負の歴史を身近に感じていた私は、その先々で歴史を過去の一つの出来事と認識し、漠然とした知識としてしまう「無関心」な人が増えてきていると感じた。

 虐殺や戦争による被害者の高齢化が進む中、若者による「被害者の想い、記憶の継承」が重要となる。しかし、戦争や虐殺を体験していない若者にとって、それは遠い過去の出来事であり、他人ごととして捉えられていると思う。まさに、これが私たち若者の取り組むべき一番の課題である。

 想像を超えた虐殺、他人にこれからの運命を握られている恐怖。それは、計り知れないだろう。その過去を風化させないためにも、今後の若者の活躍に期待が寄せられている。

 私たちが声をあげ、行動し、訴えかけていくことで本来失われることの無かった命を救い、命に対する考え方を世界規模で変えることができる。今私がここで、皆さんに語りかけている様に。人は皆、平和を実現する使命を持っている。私も、その一人である。本当の平和を実現するために、私たちは過去をしっかりと心に刻み、今を判断する眼を養わなければならない。希望の未来を築くために。(2025年6月13日・高知新聞「『黙らない』老華僑の思い」を読んで)

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