「美術展ナビ」ではお城やオペラなどの読み物でおなじみの香原斗志さん。仕事柄、イタリアには頻繁に通っていて、歴史的建造物や美術作品にも通じています。取材先で出会ったアートについて折々、綴ってもらっています。今回のスポットはシチリアの首府「パレルモ」です。
多くの人種と宗教が混在していた
イタリア半島を長靴にたとえれば、そのつま先で蹴られているボールの位置にあるシチリア島。地中海における交通と通商の要地で「文明の十字路」と呼ばれました。その3000年の歴史を通じて、幾多の文明が交錯しては積み重なった歴史があります。
ギリシア人が植民市を建設してフェニキア人と争い、ローマの属州となったのちに、ビザンティンの支配下に。7世紀半ばからはイスラム教徒の襲撃を受けるようになり、イスラム軍は827年、西部の中心都市パレルモを征服します。イスラム教徒の支配は11世紀後半まで続き、その間、パレルモはイスラム教徒のほかキリスト教徒やユダヤ教徒も住み、人種も多様な他民族都市で、ローマ時代のインフラを土台に、先進的な農業技術や灌漑技術がもたらされました。
パレルモ大聖堂の柱廊玄関の柱に刻まれたコーランの一説
そこに北フランス出身のノルマン人がやってきます。1072年にルッジェーロが、イスラム時代の首府パレルモを征服。ビザンティン時代の制度やイスラム時代の慣習を継承しつつ、ノルマンの統治原理を導入します。後継者のルッジェーロ2世がシチリア王国の初代国王となり、3代にわたる治世では、イスラム教徒も、ビザンティンのギリシア人も、ノルマン人も、宗教や人種に関係なく宮廷や軍に登用される状況が続き、まさに文明が交差し続けました。
その後、ドイツのホーエンシュタウフェン家の支配へと変わり、イスラム教徒が弾圧されるなど寛容さが失われ、フランスのアンジュー家の支配へと移って、ヴェルディのオペラで知られる「シチリアの晩鐘」の事件が起き、スペインのアラゴン家が支配してからは低迷の時代が続きます。
文明の十字路ならぬ街の中心の十字路「クワットロ・カンティ」。17世紀に造営された
歴史を述べているとキリがありませんが、シチリアが、わけても首府パレルモが、文字どおりの「文明の十字路」だったことは伝わったと思います。そして、パレルモの美術や建築にはいまも、十字路で文化が混淆したあとが色濃く残されているのです。
アラブ風の赤い丸屋根
ベッリーニ広場に面したマルトラーナ教会(左)と、アラブ風の赤い屋根が載るサン・カタルド教会
まず旧市街の中心、クアットロ・カンティ(四辻)から南にわずかのベッリーニ広場に面した2つの教会から。向かって左に建つマルトラーナ教会は、ノルマン時代のルッジェーロ2世の海軍提督ジョルジョ・ダンテオキアの要請で建てられました。拡張と改修が繰り返され、16世紀末にファサード、17世紀末には内陣がバロック様式で整備されるなど、創建時と姿を変えましたが、身廊の奥半分のアーチやクーポラに燦然と輝くモザイク画を前にすると、一気にノルマン時代に連れていかれます。
モザイク画が輝くマルトラーナ教会の内部
「全能の神キリスト(パントクラトール)」の周囲に大天使、預言者、福音史家、使徒、聖人らが配され、ほかに「イエスの生涯」「聖母の死」「神殿奉献」「キリストから戴冠されるルッジェーロ2世」なども描かれています。これは創建当初から残るシチリア最古のモザイクのひとつで、ビザンティン様式の伝統を受け継いだ傑作です。
マルトラーナ教会のクーポラに描かれた「全能の神キリスト」
2連窓が3層に並ぶ4層の鐘楼も創建時の姿をとどめます。鐘楼のてっぺんには、1726年の地震の被害を受けるまで、アラブ風の赤い丸屋根が載っていたそうですが、向かって右側に建つサン・カタルド教会には、いまも3つの赤い丸屋根が載ります。ルッジェーロ2世の後継グリエルモ2世の時代(1160年ごろ)に建てられ、外部の装飾や窓にほどこされた幾何学模様の透かし細工など、すべてアラベスク(イスラム美術)で、ノルマンの時代にもイスラム時代の伝統に濃厚に支配されていたことが、視覚で確認できます。
サン・カタルド教会のゴズマーティ様式のモザイクで飾られた床
クアットロ・カンティから今度は王宮方面に、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを西に向かうと、右側に大聖堂があります。4世紀にさかのぼる教会をアラブ人がモスクに改装し、ふたたび教会に戻ったものの地震で倒壊。1184年に建てられましたが、現在、オリジナルの部分はほとんど残っていません。さすがにパレルモ第一の聖堂ともなると、改修の手が次々に加えられたということで、この聖堂に「十字路」ならではの刻印が残された、といういい方もできるかもしれません。
おおむね14~15世紀の外観のパレルモ大聖堂。左手前の柱廊玄関は1430年のもの
横位置が正面で、連続窓や上部装飾など、おおむね14~15世紀、つまりスペインのアラゴン家支配時代の外観をとどめています。南側に張り出した柱廊玄関は1430年に加えられたカタルーニャ風のゴシック様式で、向かって左側の円柱にはコーランの一説が刻まれています。この柱はモスク時代からあったということでしょう。一方、交差アーチがほどこされた内陣だけは、唯一、12世紀の姿をとどめています。
18世紀に新古典様式に変えられた大聖堂内部
内部はスペイン・ブルボン家支配時代の18世紀末に、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂のファサードなどを手がけたフェルディナンド・フーガの手で、新古典様式へとすっかり変えられています。
イスラム美術とビザンティン美術の結晶
ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りをさらに西に向かうと、ノルマン王宮があります。古代ローマの城塞跡にアラブ人が築いた城壁を、ノルマン人が拡張して華麗な王宮に造り替えたもので、ノルマン時代、ホーエンシュタウフェン時代には、ここがヨーロッパでも文化の最先端といえる場所でした。そのころの面影は、連続アーチがほどこされたピサーナ塔や聖ニンファ塔に残っています。
ノルマン王宮の創建時の外観が残る部分を大聖堂の上から遠望
この王宮で圧巻なのは、2階に通じる大階段を上がったところにあるパラティーナ礼拝堂です。ルッジェーロ2世が1132年に着工し、1140年に献堂された礼拝堂に足を踏み入れれば、この王宮がヨーロッパの文化の中心だったことに納得がいくはずです。
ハチの巣状のスタラクタイトで装飾されたパラティーナ礼拝堂の天井
内部は尖塔アーチで三廊に分けられ、アーチを支えるのは古代の円柱です。壁面を飾る黄金のモザイクに目を向ける前に天井を仰ぐと、アラブ人が1143年ごろに制作したスタラクタイト(蜂の巣、または鍾乳石のような装飾)で飾られています。これはペルシアの伝統をイスラムが受け継いだ高度な建築技法です。
床はコズマーティ様式と呼ばれるモザイクで飾られています。白大理石に赤や緑の石を象嵌し、ガラス・モザイクも混ぜたもので、イスラムやビザンティンの美術の影響から生まれた技法です。そして、ビザンティンの伝統を受け継ぐ壁面の輝くモザイク画。これこそ、よく指摘されるとおり「イスラム美術とビザンティン美術の結晶」です。
輝くモザイク画でおおわれたパラティーナ礼拝堂。クーポラが「全能の神キリスト」
クーポラには天使に囲まれた「全能の神キリスト(パントクラトール)」が描かれ、下に預言者たち、四隅のペンデンティヴに四福音記者。その下の内陣には「受胎告知」「神殿への奉献」、後塵に「祝福のキリスト」。このあたりまでは1143年の制作で、身廊部の新旧約聖書の物語などは、1154~60ごろの制作です。いずれにしても、文明の十字路だからこそ生まれた、建築と造形美術が統合された最高の作例です。
アラブの職人の手で建てられた
王宮のすぐ南にサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミーティ教会があります。ルッジェーロ2世の要望で1132年に、アラブ人の職人が建てたもので、いまは教会として使われてはいませんが、5つの赤い丸屋根が並び、イスラムの影響が強かったノルマン時代の記念碑です。内部は角の壁龕にイスラムの影響が明らかです。また、単廊式の教会の右翼廊からは、モスク時代にさかのぼると思われる長方形の部屋にも出られます。中庭の小円柱に支えられた小回廊は13世紀のものです。
赤い丸屋根が並ぶサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミーティ教会。小回廊は13世紀のもの
王宮から西に直線距離で1.5キロくらいの場所にあるジーザも、ノルマン時代に建てられた、この時代のノルマンとアラブの融合を象徴する建築です。ノルマン王朝の2代目の王、グリエルモ1世が着工し、3代目のグリエルモ2世が1165~67年に完成させました。「ジーザ」とはアラビア語で「華麗な」という意味で、王の夏の住居として使われました。
ノルマンとアラブの融合を象徴するジーザ
その後、改造が繰り返されましたが、創建当初の仕様もあちこちに残されています。長方形のレイアウトで、1階の中央ホールには壮大な噴水があり、スタラクタイトのヴォールト(天井の構造)や、鮮やかなモザイクの装飾帯で飾られています。
スタラクタイトのヴォールトとモザイクで飾られた1階中央ホール
さて、最後にパレルモの南西8キロ、山の中腹にあるモンレアーレの大聖堂を訪れましょう。ノルマン王朝3代目のグリエルモ2世が1174年に着工した、修道院、王宮、大司教館が一体となった建築です。交差アーチがアクセントになり、石灰岩、熔岩の多色象嵌でおおわれた後陣など、外観も創建当初の面影をよく残しています。
交差アーチと象嵌で飾られたモンレアーレ大聖堂の後陣
しかし、なんといっても圧倒的なのは内部です。三廊に分かれたバジリカ式(平面が長方形の建築様式)で、アーチを支える円柱はほとんどが古代のものです。
黄金のモザイクでおおわれた「十字路」最大の成果
ここはノルマン美術、イスラム美術、ビザンティン美術、ロマネスク美術、さらには古代までが交錯し、溶け合い、調和した稀有な空間です。その壁面は、まばゆいばかりに輝く金色のモザイク画で覆い尽くされています。12世紀末から13世紀に完成したモザイク画が占める面積は6340平方メートルで、やはりモザイク画で有名なヴェネツィアのサン・マルコ教会より4割程度多いようです。
圧倒的な量のモザイク画で飾られたモンレアーレ大聖堂の内部
左右の身廊には旧・新約聖書の物語が描かれ、右側上段の「創世紀」の場面からはじまって、左右が対象になるように図像が整然と配置されています。中央後陣は、上から「全能の神キリスト(パントクラトール)」「天使と使徒に囲まれた玉座の聖母子」「諸聖人」。また、内陣の左上の壁面には「キリストから王冠を授かるグリエルモ2世」が、右上の壁面には「大聖堂を聖母に捧げるグリエルモ2世」が描かれています。
旧・新約聖書の物語が描かれた身廊
「全能の神キリスト」が描かれた中央後陣
パラティーナ礼拝堂を規模で上回るのはもちろん、見事な調和が見られます。こちらのほうが半世紀近くのちのもので、それだけ経験による円熟が得られたということかもしれません。
モンレアーレ大聖堂を訪ねたら、回廊付きの中庭も見逃すわけにはいきません。かつてのベネディクト会修道院の中庭で、やはりグリエルモ2世の時代にさかのぼります。ここは47メートル×47メートルの中庭が228本の2本組の円柱で支えられ、それぞれの円柱はガラス・モザイクの象嵌とアラベスク模様の浮彫で、華麗かつ繊細に飾られています。それぞれの円柱の柱頭彫刻もバラエティに富んで見事です。
中庭の南隅には、棕櫚の木をかたどった円柱が立つ泉が、円柱が支えるアーチに囲まれています。
中庭の南隅、棕櫚をかたどった円柱と、円柱が支えるアーチ
さまざまな宗教、さまざまな人種が交錯した、地中海における「文明の十字路」としてのシチリア。それらがもっとも顕著に交わった首府パレルモにおいて、混じり合って調和し、さらに洗練された最高の成果が、このモンレアーレ大聖堂だと思います。
香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。
◇【イタリア美術鑑賞 ♯3】 ミラノのブレラ絵画館で世界を見る人間の「目」の歴史をたどる
