篠原大輔

2026/05/08

(最終更新:2026/05/08)

#関東大学アメフト

#東京大学

試合中は険しい顔が多いが、普段はよく笑うのが東大の新HCに就いた藤本義人さん(すべて撮影・篠原大輔)

東京大学アメフト部「ウォリアーズ」はここ2年続けて関東大学1部TOP8で4勝3敗と勝ち越している。日本代表の監督も務め、東大では2017年の1部BIG8時代からヘッドコーチ(HC)を務めてきた森清之さんが昨シーズン限りで退任。新たにHCとなったのが2023年から昨年までLB(ラインバッカー)のコーチで、京大の学生時代に森さんの教え子だった藤本義人さん(51)だ。Xリーグのアサヒ飲料チャレンジャーズ(現・SEKISUIチャレンジャーズ)とイワタニサイドワインダーズ(現・サイドワインダーズ)でHC経験のある藤本さんに、これまでの人生と東大生と過ごす日々について聞いた。

藤本さんの東大HCとしての初戦は4月29日、関東1部BIG8に所属する専修大学グリーンマシーンとの交流戦だった。藤本さんがつけていたヘッドセットにはコーチ間のすべてのやり取りが入ってきたが、ほとんど何も口を出さなかった。高校までのフットボール経験者が大半で身体能力で上回る専修大に7-16で敗れた。試合直後の全体ハドルで藤本HCは「このチームの現在地を知れたのはよかった。目指すところに変わりはないんだから、しっかりやっていこう」と短く話した。

HCとしての初戦となった専修大戦後は学生たちに短く声をかけた

個人個人と向き合うため、平日もグラウンドへ

森さんはフルタイムのHCだったが、藤本HCはポジションコーチ時代と同様、会社勤めをしながら指導に当たっている。ただHCに就任してからは平日も練習がある日は終業後に本郷キャンパスの御殿下グラウンドへ通う日々だ。その理由について藤本HCはこう語る。「LBコーチのときも行ける日は平日も顔出してたんですけど、いまは頑張って毎日行くようにしてます。遅くなってしまうこともあるんですけど、ヘッドコーチとはいえ選手やスタッフ個人に対して向き合う時間を大事にしたい。だから来てます。厳しいことも言わないといけないんで、泣かせてしまったりすることもありますね」

昨秋のシーズン後半、森さんがHCを退任する意向が東大のコーチの間で伝わった。藤本さんは「まだ森さんが続けた方がいい」と考えていたから、何回か説得したそうだ。結局森さん退任の方向性が決まり、三沢英生監督から藤本さんにHC就任の打診があった。それ自体には驚きはなかったという。「2023年にこのチームに関わり始めたころから将来的なヘッドコーチの話は三沢さんから何回かされていて、森さんがやめるとなったら僕に話が来るんだろうなと思ってましたし、やらざるを得ないんだろうなと」。こうして2代続けて京大出身者が東大のHCに就くことになった。

京大時代に藤本さんと同期のキャプテンだった杉本篤さんも、いま東大でQBコーチを務めている

最初に好きになったのは関学だった

兵庫県西宮市香櫨園の生まれ。幼稚園の年中の途中でアメリカへ引っ越した。フットボールについての原体験は、向こうで初めてテレビで見た1980年のスーパーボウルだそうだ。スティーラーズが勝ち、そのとき以来スティーラーズのファンだ。のちの歩みを考えると、日本のアメフトで最初に好きになったチームが関西学院大学ファイターズというのは、よくできたネタのようだ。渡米して約2年で帰国すると、母の妹の結婚相手が関西学院の高等部までアメフトをしていた人で、その人に連れられ、関学を応援するために大学の試合へ行くようになった。1982年秋の関学―京大戦も現地観戦。京大が勝って初の関西学生1部単独優勝と甲子園ボウル出場を決めると、「なんやねん京大」と思った。阪神大震災のときに納屋から出てきた小学生時代の日記帳には「甲子園ボウルを見に行った。関学が勝ってよかった」と書いてあった。

関学に行ってアメフトがしたいと思って中学受験の準備を始めた。成績がグングン上がり、いつしか「関学でアメフト」は頭から飛んでいた。あの灘中学校に合格した。灘高校では成績は学年で10番ぐらいだった。先生からは日本の大学受験界最高峰である東大理Ⅲの受験を勧められた。しかし藤本さんの心は、京都大学にあった。というよりも京大アメフト部「ギャングスターズ」にあった。

スポーツで一番を目指す経験がしたい

高2のころ、小学校で仲のよかった同級生に会ったのが一つのきっかけだった。同級生は言った。「ウチのお兄ちゃん、京大のアメフト部に入りたいから京大目指してんねん」。1学年上の彼の兄は勉強もスポーツもできて、小学生のころから藤本さんの憧れだった。「あ、そうか」と、藤本さんは京大を受けることにした。もう一つのきっかけは夏休みに剣道部の練習から帰宅すると、テレビに夏の甲子園が映し出されていた。負けて泣いている高校生を見て、ショックを受けた。

「俺が経験してない世界だと思いました。僕らは剣道の試合に行っても『今日は1回戦で負けやな』『相手が弱そうやから1回は勝てるかな』みたいな話をしてたから、なんか悔しくなって。スポーツで一番になることを目指す経験をしてみたいと思ったんです」。もうギャングスターズしかなかった。ただ体格に恵まれているわけでも、足が速いわけでもない。親に相談すると「どうせ試合には出られへんよ」と言われた。それでもいいとさえ思った。裏方でもいいからスポーツで日本一になりたい。親は「そこまで言うなら」と言って、京大を第一志望にすることになった。

最初に見たスーパーボウル以来、50年来のスティーラーズファンだ

高3の夏と冬に受けた京大受験生向けの模擬試験は4回とも工学部情報工学科の志望者の中で全国1位だった。その年、ギャングスターズは5年ぶりに甲子園ボウルに出場して法政大学トマホークス(当時)に勝った。藤本さんは順当に合格し、1993年の春にギャングスターズの門をたたいた。京大受験のきっかけとなった憧れのお兄ちゃんは1浪して合格して入部。なんと同期になった。主にキッキングゲームで奮闘した大浜大さんが「憧れのお兄ちゃん」だ。

ポジションはLBで、2年生までは鳴かず飛ばず。同期のLBには安澤武郎、根来拓也と1回生から活躍した二人がいた。当時の京大はHCを兼ねる監督として水野彌一さん(現・京都両洋高校HC)がいて、オフェンスコーディネーターが藤田智さん(現・京大HC)、ディフェンスコーディネーターが森さんだった。コーディネーターとはいっても、個々の指導にも深くかかわっていくスタイルだった。

水野さん、森さん、藤田さんと京大時代は指導者に恵まれた

スタッフ転向の話もあった

2年生の秋シーズンが終わると、藤本さんたちの学年の選手からスタッフを3人出すという話になった。同期で話し合って決まった3人に、藤本さんも入っていた。ただ、チームとしては主力選手が大きく入れ替わる年でもあったので、この件はいったん保留になった。だが年が明けて1995年の3月ごろ、新4年生のマネージャーから藤本さんの下宿に電話があった。「藤本、スタッフやってくれ」。藤本さんはこう返したそうだ。「3回生の春に1本目の試合にスターターで出られなかったら選手をあきらめるんで、春だけやらせてください」と。

京大のオフェンスはその春からRB3人のウィッシュボーン隊形を使うことになっていたから、クラブハウスのオフェンス部屋のホワイトボードには新たなアサイメントや決まりごとが詳細に記されていた。オフェンスの練習台のLBからスターターのLBまでのし上がるため、藤本さんは少しセコい手に出た。オフェンス部屋のホワイトボードに書いてあることを全部覚えた。その時点での最大のストロングポイントだった優れた頭脳をフル活用した。

練習になると京大オフェンスのやってくることが手に取るように分かる。練習台としていいプレーを繰り返すと、コーチ陣の間で「藤本をディフェンス1本目の練習に入れてみよか」という話になった。そしてLBにけが人が出たことも重なり、藤本さんは3年生の春の関学戦にスターターで出ることになった。当日は雨が降り、双方がランプレーに終始。0-0のドローだった。「ランって分かってるのもあって、初めてなのにそこそこ止められました。『藤本使えるね』っていう雰囲気になって、そこから上のチームにずっと入れてもらいました。運があったと思います」

頭を使い、選手として生き残った

控えの1番手として日本一を経験

スタッフになるかもしれなかった藤本さんがLBの控えの1番手として本番の秋のシーズンを過ごし、キッキングゲームではフル稼働。関西学生リーグでは最終節、立命館大学パンサーズとの全勝決戦を7-3という死闘で制し、甲子園ボウルでは法政大学に24-17で勝利。3年ぶりの大学日本一となって臨んだライスボウルでも松下電工インパルス(当時)を35-21で下し、8大会ぶりの日本一に輝いた。

4年生の春シーズンに入る前のある日、藤本さんはマッサージを受けるため、クラブハウスのトレーナー部屋に入ろうとした。その瞬間、右手にあるコーチ部屋から森さんの野太い声が聞こえてきた。「LBは安澤と根来と(2年生になる)舩原をスターターに据えて、藤本は控えでいく」と。いよいよ3人のスターターLBの一角に入れると思っていただけに、ショックだった。「まあでも、やるしかないか」と学生ラストイヤーに臨んだ。結局は安澤、根来という実績のあるLBに藤本さんが加わる形でスターターになった。

昨年から東大のエースQBとして奮闘してきた田中昂(中央)。パスにも成長を見せてラストイヤーの戦いに臨む

予感が当たってしまった関学のノーハドル

勝負の秋シーズンが始まった。京大が危なげなく勝ち続けて迎えた第6節。相手の関学はすでに立命館に1敗を喫している。試合前日の練習が終わったあと、藤本さんは森さんから「藤本、なんか気になることはないか」と話しかけられた。即座には思いつかず、「ありません」と言ってすれ違った。しかし次の瞬間、「関学がノーハドルできたらどうしよう」と思った。「振り返って森さんに言えばよかったんですけど、言わなかった。そこからみんなをまた集めて話し合うのもな、と思ってしまったんです。いまだに後悔しています」

果たして翌日の西宮スタジアム(当時)。関学は最初のシリーズからノーハドルで畳みかけてきた。受け身になってしまった京大は先制のタッチダウンを許す。そこまでのリーグ戦で猛威を振るってきたオフェンスはすぐにタッチダウンを奪うが、トライフォーポイントのキックを失敗。その後はオフェンスの爆発もなく、ディフェンスは要所で短いパスを通されて6-21で敗れた。

アオテンから始まった暗黒時代

この試合の序盤、藤本さんが相手の4年生のRBにブロックされ、仰向けに倒されたシーンがあった。いわゆる「アオテン」だ。そのRBはプレーの勢いのまま、藤本さんを踏みつけた。このプレー、藤本さんによれば1.5列目にセットして、DLとクロスするサインだった。DLを先に行かせて自分が回ってきたところにRBがブロックにきて、出合い頭でやられたという。「何でやられたのか分かってるから、僕自身はあれで焦ってしまったとかいうのは一切なかったんです」

しかし京大のコーチ陣は屈辱的なやられ方をした藤本さんを問題視した。続くリーグ最終の立命館戦へ向けた練習から、藤本さんにとって4年間で最もつらい日々が始まった。当時の京大のチーム内では「怒りは最大のパワー」と信じられていたから、コーチたちは藤本さんの闘争心に火をつけようと、あの手この手でけしかけた。

いま、藤本さんは言う。「あの関学戦で僕がよくなかったのは、熱くなりきらなかったことだと思ってます。でも、ああいうのは個人的にはよくないと思ってるんですよ。とりあえず誰かスケープゴートを見つけて、やっちゃうっていう。だから僕がコーチをやるようになって、そこは気をつけるようにしています。ああいう経験をしたから」

東大のオフェンスライン陣。東大オフェンスの屋台骨として戦う

藤本さんは当時を「暗黒時代」と呼ぶ。その暗黒時代の中、下宿で日めくりのカレンダーを作って、ライスボウルの1月3日まで「あと何日」と自分に言い聞かせていた。そうでもしないとやっていられなかった。森さんはこう振り返る。「藤本は抜群に頭がいいのが最大のストロングポイントだと思いますけど、それ以上にめげないのが一番いいところ。4年の関学戦のあと、ほんとに憂鬱な日々だったと思います。でも100%自分の力で、へこたれずにやりきりました。当時は私も若くて情熱だけはあるけど、引き出しは少なくて。ヤツにも悪いことをしたなと思います」

京大が立命館を下し、関学を含めた3校が6勝1敗で同率優勝。当時は関西王者と関東王者が対戦していた甲子園ボウルの出場校を決めるプレーオフがあり、関学と立命館の勝者が京大と対戦することになった。京大は関学との対戦を熱望したが、上がってきたのは立命館。24-6で下し、2年連続の甲子園ボウルへ。28-21で法政大学を下してライスボウルへ進んだが、16-19でリクルートシーガルズ(当時)に敗れた。

5回生コーチになって流した涙

藤本さんは工学部情報工学科を2留の末に卒業した。5回生コーチとして後輩を指導するとき、最初は𠮟れなかったそうだ。「一歩引いたら気づくことがいろいろあって、『これに気付いてたら、もっといい選手になれたのに』という後悔の方が先に立ってしまった」と藤本さん。下宿に帰ってしょっちゅう泣いていたという。「こんな思いで4年間を終わってもらいたくない」と、コーチという生き方にスイッチが入った。

京大の大学院に進んでイワタニサイドワインダーズで1999年の1シーズンだけプレー。2000年から06年までイワタニでコーチ。HC時代には試合中の審判の判定に納得がいかず、試合直後に審判の控室に「こんなひどい判定ばっかりしてたら、誰もお客さん来なくなるでしょ」と怒鳴り込み、Xリーグから2年間の資格停止処分を受けた。その間、観客席にいた藤本さんは、試合中の選手たちがアドバイスを求めて寄ってくると、最前列まで降りて行って応じた。

「フットボールの世界では森さんは日本一。そのあとを継ぐのは結構つらいですよ」と藤本HC

2008年から11年はアサヒ飲料チャレンジャーズのHC。18年の夏から中央大学ラクーンズで20年の秋シーズンまでコーチを務め、23年から東大へやってきた。「森さんともう一回フットボールに関わりたい」という気持ちが大きかったという。

学歴の最後は神戸大学医学部の大学院で体内時計について研究し、博士号を取得した。当時の教授の言葉で、一つだけ胸に刻んでいるものがあるという。「失敗からの学びはない」という話だ。「失敗から学ぶというけど、そのあとに振り返って『次はこうしよう』と思って、次に成功させる。成功したうえで、失敗と成功の要因を比較して、『だから成功したんだ』となって初めて学びがある」と教わった。これもコーチをやるうえでいつも意識している考え方だそうだ。

5月9日には思い出の農Gで京大と対戦

最後にウォリアーズの学生たちにどんな4年間を過ごしてほしいのかを尋ねた。「小さい成功体験でいいので、『あっ、こうやったからうまくいった』というのを経験してほしいです。あとは物事への向き合い方ですよね。東大生は社会に出てリーダーになっていくことが多い。そういう意味では日本一を目指してとことんやるとか、そのプロセスで苦しいとき、どうやって物事に向き合うかが一番大事だと思ってます。そこについてある一定のものを4年間を通じて学んでほしいです」

5月9日には藤本さんの汗と涙も詰まっている京大農学部グラウンド(通称:農G)で、ギャングスターズと戦う。農Gに足を踏み入れ、思い出すのはやはり暗黒時代のことだろうか。とびきり賢くてめげない男、藤本義人の闘いは続く。

友だち追加

Share.