当時世界最多の生体肝移植の実績

 群馬大学の先輩に無理を言って紹介状を書いてもらい、幸運にも1996年6月から京都大学移植外科で研修医として働く機会をいただけた。ちょうど1996年4月に京都大学第二外科から移植外科が独立し、日本でも移植医療の夜明けが感じられるような時期だった。既に京都大学移植外科は、当時世界最多である180例の生体肝移植を手がけており、その成績も脳死肝移植より良好で、国際的にも注目されている教室だった。

 また高度医療である生体肝移植を始めたいと考えている全国の大学病院から、気鋭の若手外科医が10人程度勉強に来ていた。他大学からの若手外科医は、旧帝大か旧六医大、有名私立大学など一流大学の出身者だった。京都大学出身の若手外科医3人も一緒だった。田舎の小さな病院勤めで、きちんとした外科研修を受けずに群馬の田舎から出てきた僕は、一流大学出身の優秀な同僚達にだいぶ気後れしたが、そんなことを感じる余裕はすぐになくなることになる。僕は29歳になっていた。

最初は子どもの採血や点滴ルート確保すら苦慮

 京都大学移植外科では40代の助手の先生ごとにチームが編成され、計4チームで患者さんの管理にあたっていた。京都大学生え抜きの先生方に、外科医の基本手技である糸結び・縫合・切除を一から直接教えていただいた。

 僕はK先生のグループに配属された。同僚は京大卒のO先生、日本大学卒のM先生だった。最初はM先生の見習いで、朝の採血・レントゲン撮影現像・緊急検査・培養検査などを行い、日々の病棟業務に慣れていった。1996年当時は子供の生体肝移植が多く、移植を待つ患者さんとご両親が、全国から京大に移植を受けに来ていた。親御さんもお子さんと一緒に病室で寝泊まりして、いつも付き添っていた。小さな患者さんに対する処置は僕にとっては初めてで、慣れない採血や点滴ルート確保がとても難しく、なかなか上手に採血や点滴ができず、たくさんの子供達を泣かせてしまった。採血するときに横で見ていた親御さんには本当に申し訳ないことをしたと、今も深く反省している。基本的な技術ができないことは、外科医として本当に恥ずかしいことだ。

 しかし、誰も最初からできるわけではない。練習につぐ練習を繰り返して、たくさん経験を積むことでしか、良い医師になる方法はないのだ。ドラクエと同じように、経験値を上げないとレベルは上がらないのだ。

初めて受け持ったのは6歳の女児

 僕が初めて自分で受け持った患者さんは、当時6歳のひとみちゃんだった。北海道出身のかわいいお嬢さんで、1996年の夏に初対面でお話ししたときは、とてもお元気で病気のように見えなかった。紹介状を見ると、先天性の病気で、高タンパクの食事(お肉や乳製品)を摂ると急激に高アンモニア血症を来すオルニチン・トランスカルバミラーゼ欠損症だった。

 通常、アンモニアは肝臓で代謝されて、便や尿で体外に排出されるけれど、ひとみちゃんの肝臓にはアンモニアを代謝する酵素が少なくて、頻回にアンモニアが高くなるようになってしまっていた。ぼーっとしてしまい、進行すると脳浮腫が起こってしまい、麻痺やひどいと寝たきりになったり、死んでしまうこともある非常に怖い病気だ。決まった量のタンパク質しか取れないため、ひとみちゃんは生まれてから一度もご家族と外食したことがなかった。ひとみちゃんはお父さんから肝臓の一部をもらって生体肝移植を行うことになった。

主治医でも移植手術になかなか入れず

 当時仕事でとてもしんどかったのは、患者さんの主治医なのになかなか移植手術に手洗いをして参加できなかったことだ。移植手術の準備、採血、画像検査や診断、資料作成などありとあらゆる準備を、寝ないで主治医が準備する。しかし、手術日にも病棟の残務が山ほどあるため、主治医なのに手術に入れないことが多く、手術ができるようになりたくて行った京都大学で手術に入れないことは、正直本当にしんどかった。

 手術に入ってないと、術後にご家族に経過をご説明することも十分にできないし、術後の合併症が起こり得る場所が予見できない。また若手外科医のモチベーションを著しく落とす原因にもなる。しかし当時はこれが当たり前だった。とても悔しい思いをしたので、僕の病院では今、主治医は必ず、執刀または第一助手で手術に参加できるようにしている。ちなみに京都大学も執刀機会が最も多い病院として若手外科医に大人気の病院となっている。

移植肝臓の色が変わった感動の瞬間

 ひとみちゃんの手術はなんとか第四助手で入ることができた。主治医で入る初めての生体肝移植は、本当に特別だった。生体肝移植前に臓器をあげるご両親、患者さんと親密な関係を築いているため、お父さんの肝臓がひとみちゃんの体に入って、血液が流れて色が変わったときには、本当に感動して涙が出てきた。移植がうまくいけば高アンモニア血症で意識を失うこともなくなるし、何より家族と同じ食事ができるし、外食だって好きにできるようになるんだ。見た目は元気そうなお嬢さんだけど、目に見えないアンモニアで、ご家族とひとみちゃんは長い間苦労されてきた。お父さんの命のプレゼントが無事にひとみちゃんに届くよう、僕も精一杯準備してきたつもりだったので、本当に嬉しかった。ひとみちゃんの術後経過は良好で、2カ月で北海道に帰って行った。あれから29年経つが、今は立派な社会人になられても元気にお過ごしだ。

 手術が上手な先輩ばかりだったが、とりわけ感動したのは結紮手技のうまさだった。教授はもちろん上手だったが、助手のO先生の結紮は卓越しており、教授執刀で学会用のビデオ撮影があるときには、必ずO先生が第一助手に指名されていた。O先生は角刈りだったので、まずは形から真似するために僕も角刈りにした。それから同じように結紮できるよう、研修医時代以上に繰り返し練習し、技術を磨いた。

 多忙な業務の中でスタッフ医師は論文執筆も必須で、年間数編ずつ寝る間を惜しんで論文を書いていた。僕の初めて書いた英語論文はひとみちゃんの症例報告で、国際的な雑誌に掲載された。論文を執筆し査読者であるその道の専門家にフェアーに評価され、それが形になって雑誌に掲載されることに大変感銘を受け、その後現在まで毎年英語論文を2本以上執筆するようにしている。

 非常に厳しい生活環境だったが、全国の大学から肝移植を学びに来ている同世代の外科医と切磋琢磨し成長できたことは、今の自分を形作る礎になっている。

「そろそろ留学に行かないか?」

 京都大学で1996年から2002年までの6年間、昼夜無く猛烈に働き、休み無く病院に寝泊まりし、先輩外科医に追いつこうと努力をしていたある日、教授室に呼ばれ「そろそろ留学に行かないか?」と言われた。6年間で既に僕の手術に参加した肝移植総例数は600例を超えており、36歳と外科医としては若い割に、経験値だけ高かったので、妙な自信を持った少々鼻持ちならない外科医になってしまっていた気がする。

 振り返って考えてみると30代半ばの医者は、何か自分ができるような勘違いをしやすく、謙虚さを失いやすい年代だと言えるかもしれない。僕の場合は、所属している大学病院が超一流の移植医療を患者さんに提供していたため、自分が一流のような錯覚に陥り、さらに勘違いがはなはだしかったと思う。

 教授はそんなところも見透かしていたのだと思う。海外留学は自分を見つめ直すにはとてもいい機会だった。京大卒の生え抜きの同期3名は、既にスタンフォード大学、ピッツバーグ大学、ブリュッセルの一流病院に留学しており、僕もいつか留学に行けたらいいなと思っていたので、海外留学の誘いは本当にうれしかった。おまけに2000年に神経内科医である妻と結婚もしていたから、二人で過ごせる時間も楽しみだった。教授の紹介で、英国ロンドンのKing’s College Hospitalの肝移植外科に行くことになった。自己推薦状を先方の教授に送ると、京都大学のネームバリューのおかげで、すぐに了解のお返事をいただくことができた。その後は日常業務に加えて、臨床就労ビザを取得するための書類準備、外資系銀行口座の開設、引っ越し準備で多忙を極めたが、2002年4月に妻と無事にロンドンに出発することができた。

笠原群生(かさはら むれお)

1966年生まれ。1992年群馬大学医学部卒業、同大外科レジデント。1996年京都大学移植外科レジデント、1999年同外科助手。2002年英国King’s College Hospital, Liver transplant unit, Clinical fellow、2005年から国立成育医療センター(現国立成育医療研究センター)に勤務し移植外科医長、2011年臓器移植センター長、2017年副院長、2022年4月から院長。

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