2026年10月11日
コラム)山上徹也被告の「人生やり直し」/川上文雄のじんぐう便り…24

干支(えと)の置物(高さ7センチ、ちぎり和紙を陶器に貼り付け)。午(うま)年の今年もあと2か月あまり(撮影2025年12月22日)
安倍元首相を銃撃殺害した山上徹也。奈良地裁の「無期懲役」判決を不服として大阪高裁に控訴中です。無期か有期か、控訴審のゆくえが気になります。でも、もっと気がかりなのは山上被告のこれからの人生です。これまでの過酷な人生を終わりにしてほしい。「服役したら、罪を償いながら、すぐに人生のやり直しを始めてほしい」と心から願っています。
そう言われても、ほとんどの人は「願う」という言葉に違和感を持つのではないでしょうか。それでは「許容」の意味合いを込めて「山上は人生のやり直しを始めてもいい」であれば、どうでしょう。なぜ山上被告の「人生やり直し」を願うのか。その説明を読んで、できるだけ多くの人が許容する気持ちになってほしいと思います。
どんな犯罪者も、罪を償いながら人生をやり直すことができる。原則論として、ほぼ例外なく受け入れてもらえそうです。とはいえ「ほんとうに山上本人にその気持ちがあることが前提である」と考えるのではないでしょうか。
「やり直し」を願う私も同じです。本人みずから「罪を償いながら人生をやり直したい」と思わなければ、願いはむなしい。しかし、だからといって、突き放すような感じで「山上の態度次第。山上がその気になるのを待つ」と思うことはありません。
「社会」の側が先に考える
「社会の側が先に手を差し伸べて、山上被告がその気になるのを待つ」という姿勢でいたいです。なぜ「社会の側が先に」なのか。山上被告と社会のこれまでの関係を振り返りながら、説明します。
山上被告には統一教会の被害者として社会のなかの人たち(同じ被害者たち)に平和的な方法で働きかけていた時期があります。しかし、最終的にそのような社会とのつながりを断って、単独での元首相銃撃に突き進みます。当否はともかく「社会への復讐」という言葉を使う論者もいます。
しかし「山上の方から社会とのつながりを断った」と考えたのでは、不正確です。忘れてならないのは「すでに社会の側が山上との関係を断っていた」という経緯です。私たちの社会は統一教会被害者たち(山上被告を含む)の苦難に気づかないままだった。私たちが国政選挙で信任した政権も、権力基盤の維持のために統一教会との「持ちつ持たれつの関係」を優先して、被害者の救済を放置していた。ジャーナリズムも「被害とその政治的背景」の実態に迫ろうという努力を欠いていた。
そのように、私たちの社会は「山上徹也」という人間を忘れられた存在のままに放置していた。山上が参院選遊説中の安倍元首相を銃撃したその時になって、社会はそれまでのことを忘れたまま、みずからを「言論を封殺する、民主主義への暴力」を被った被害者、「山上は加害者」と思い始めたのでしょうか。
それではあまりにも一面的です。「民主主義の社会」は山上被告を含む被害者たちを放置していた点では、まさに加害者だからです。安倍氏は「被害者を放置した民主主義社会」の一員、それも民主主義の選挙が長期にわたり最高権力を与えた「社会の一員」です。
ただし、個人対個人の関係で言えば、殺害された元首相は被害者、山上被告は加害者です(「無期」判決はこの点にしか着目してくれなかった。)。そして妻の安倍昭恵さんは一方的な被害者(山上被告はそれが分かっていて、裁判では明言しなかったけれど、拘置所内で面会に来た人には昭恵さんに対する強い謝罪の思いを伝えています)。
私たちの社会は統一教会被害者の苦難の人生に深く関わった当事者です。「無期」判決が軽視した、山上徹也という一個の人間の苦難の大きさをしっかり受けとめる。つまり「山上徹也の人生やり直し」を自分事として考える。そうすれば「やり直しを始めてもよい」と許容する気持ちになれるのではないでしょうか。その気持ちは、人間を大事にする社会であるために、そして社会が尊厳を保つために必要なことだと思います。
過酷な人生は続くのか
つながりが回復しなければ―社会と山上徹也との関係が修復されなければ―これからも過酷な人生は続きます。これまでは「被害者」としての過酷な人生(母親の高額献金による生活の困窮、大学進学の断念、その後の人生。その傷跡は今後も消えない)。これからは「加害者として」が加わります。社会から孤立したままの刑務所生活が精神的に厳しいものであることは容易に想像できます。
「社会に対する復讐」「社会から疎外された(見放された)ための犯行」という見解があります。では、山上被告は今も社会に絶望したままなのでしょうか。拘置所で何度か面会した鈴木エイト氏の著作を読む限りでは、自暴自棄のままでいるとは思えません。山上被告は社会とのつながりを回復したい気持ちを失っていない。そう考えなければ、再び私たちの社会の側から「つながり」を断つことになってしまいます。
犯罪を悔いて「山上徹也の人生」を新しく始める。それは、更生することにほかなりません。控訴審では更生への希望と意欲をしっかり語ってほしいです。
社会とのつながりを回復して、人生のやり直しを始める。それはどのようなものになるのでしょうか。統一教会を始めカルトの、あるいは宗教2世の被害者たちと具体的につながる活動をするとか、自身の経験を社会に伝えていく(本を書く)とか…。もちろん、服役中という大きな制約があります。しかし、できないことではないと思います。山上の希望を最優先しながら、更生に寄り添う人たちが現れるようにと願っています。
【追伸】
敬称なしの「山上徹也」という言い方について、以下のように考えています。
コラムのなかに「被告」の語をつけた箇所とつけなかった(呼び捨ての)箇所があります。呼び捨てにしないと敬意を表したことになります。それとは次元の異なる「敬意」の考え方をして、呼び捨ての「山上徹也」を使いました。だから「犯罪者だから呼び捨てでいい」という考えはありません。
コラムのなかに「山上徹也という一個の人間(の苦難の大きさをしっかり受けとめる)」という語句があります。この「一個の人間」という言い方に私の考えが集約されています。
「どんな犯罪者でも、罪を償いながら、社会とつながりながら、人生をやり直すことができる」と書いて、山上徹也の「やり直し」を強く願いましたが、それは「一個の人間」としての「やり直し」です。
「一個の人間」とはどういうことか。
人間は生まれたら、親(またはそれに近い人)から名前を付けてもらうのですが、その名前で人生を始めます。しかし、子どもは名づけた人の所有物ではなく、独立の一個の人間として、尊厳ある人間として人生を始めます。人生のやり直しを希望する山上徹也は、尊厳ある「一個の人間」として、それまでの人生を悔いて(服役して罪を償って)再生してほしい。
「被告」には、他人によるラベル貼りの一面があります。そのような敬称を付けて呼ぶことを控えたくなるほどの「かけがえのない自分を生きる人間」として、それを大事にして「人生やり直し」をしてほしい。そう考えると、山上徹也は「山上徹也」と呼ぶしかありません。
(随時更新)

かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、奈良教育大学元教員、奈良市の神功(じんぐう)地区に1995年から在住
