ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2026.08.13 10:30

釜山(プサン)も首都だった。戦争のさなかにやむを得ず引き受けることになったとはいえ、3年近く大韓民国の首都の役割を果たした。その波乱万丈の歴史の痕跡がユネスコ世界遺産に登録されようとしている。国家遺産庁は昨年11月、「避難首都釜山遺産」11カ所を優先登録リストに選定し、来月ユネスコに事前評価を申請する予定だ。国家遺産庁は2030年のユネスコ世界遺産登録を目標としている。

臨時首都の遺産といっても、行政官庁や政府機関だけではない。避難民の哀歓が刻まれた生活の現場も複数カ所ある。この中には、すでに観光客が訪れる名所も含まれている。避難首都遺産11カ所のうち、釜山旅行を考えている人ならぜひ訪れたほうが良いと思われる4カ所を選んだ。

1)景武台(キョンムデ)

避難首都・釜山の旅は景武台(キョンムデ)から始めるべきだ。旅行先としてそれほど魅力があるわけではないが、臨時首都・釜山の歴史を一目で把握できるからだ。

釜山は計2回、大韓民国の首都だった。第1次避難首都期間が1950年8月18日~10月26日、第2次避難首都期間が1951年1月3日~1953年8月14日だ。この2度の遷都には当時の戦況がそのまま反映されている。開戦から2日でソウルを捨てた李承晩(イ・スンマン)政府と1950年9月28日のソウル奪還、1951年1月1日の中共軍6個軍団の南侵、1953年7月27日の休戦協定調印まで、韓国戦争(朝鮮戦争)の決定的な場面が避難首都のカレンダーと重なる。釜山が首都だった期間は正確に1023日だ。2年と10カ月弱になる。

避難してきた李承晩大統領は、日帝が建てた慶尚南道知事官舎を官邸として使用した。今年で築100年になる赤レンガの建物だ。大統領官邸といえば青瓦台だが、李承晩政権時代には景武台と呼ばれた。現在は避難首都の歴史を紹介する臨時首都記念館として活用されている。大統領執務室の椅子には李承晩大統領のろう人形が座っている。

景武台から見下ろすと、まっすぐに延びた大庁路が釜山港まで続いている。この一帯はかつて日本人居住地域だった。景武台のすぐ下には東亜(トンア)大学富民(プミン)キャンパスがあり、現在、東亜大学博物館として使われているレンガ造りの建物が避難首都時代の臨時中央庁だった。

2)峨嵋洞(アミドン)碑石村

釜山が避難民であふれると、釜山港前のバラック街も飽和状態を超えた。泣き面に蜂とばかりに、釜山市は戦争が終わるとバラック街の撤去政策を実施した。バラック街がなくなれば避難民もいなくなるのだろうか。

避難民は釜山港からさらに離れた山に入り、再びバラックを建てた。そうして新たに形成されたバラック街の一つが、天馬山(チョンマサン)と峨嵋山(アミサン)の間にある峨嵋洞山19番地だ。峨嵋洞は世界で最も悲しい生活の場だ。墓地を取り壊し、人が入って暮らしたためだ。

峨嵋洞山19番地はもともと日本人共同墓地だった。峨嵋洞の家の面積が大部分2~3坪(7~10平方メートル)なのは、日本式墓地の区画に合わせて家を建てたためだ。峨嵋洞の住民は墓石を取り外して石垣を築き、段ボール箱に油を塗って屋根をつないだ。今もその痕跡が村のあちこちに残っている。峨嵋洞の路地がひときわ狭いのも、1階より2階のほうが広い「頭でっかちの家」が多いのも、日本人墓地の上に家を建てたためだ。長い間、峨嵋洞では下駄を引きずり、着物を着た日本人の幽霊が出るといううわさが流れていた。

峨嵋洞という名前は「エマク」が多い町に由来するという。エマクとは粗末な小屋のことだ。皮肉なことに、この名前のために外国人の足が絶えない。BTSのファンクラブの名前もARMY(アーミー)だからだ。峨嵋洞のあちこちには紫色の造形物が設置されている。かなり不釣り合いだが、海外のARMYには好評だ。

日本人の幽霊が出たという釜山のスラム街にBTSの海外ファンが押し寄せるようになったのは(2)


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