モスクワで行われた対独戦勝81周年記念パレード(5月9日、写真:ZUMA Press/アフロ)
プロローグ/「対独戦勝記念日」に想う
欧州諸国では5月8日が第2次世界大戦欧州西部戦線の「終戦日」(Ende des Kriegs=ドイツ語で戦争の終結の意)。
一方、旧ソ連邦諸国の「対独戦勝記念日」は5月9日です。
筆者は今年のモスクワ「赤の広場」の軍事パレードはどのようなパレードになるのか注目しておりましたが、事前の報道通り、私が視聴した中継でも戦闘車両は登場しませんでした。
表面上の理由はドローン攻撃を避けるためと説明されていますが、ロシア・ウクライナ双方が5月8・9日の一時休戦に同意しているのですから、これは言い訳にすぎません。
実態は、「赤の広場」に登場させる戦闘車両(戦車)がもはや在庫切れとなっている可能性が高いと推測されます(後述)。
毎年この時期になると、降伏・停戦・休戦・終戦の意味を考えさせられます。
上述の通り、旧ソ連邦諸国では5月9日が「対独戦勝記念日」ですが、欧州では5月8日が「終戦記念日」です。なぜ欧州諸国では8日が終戦記念日、ロシア(旧ソ連邦諸国)では9日が対独戦勝記念日なのでしょうか?
答は簡単です。欧州戦線は東部戦線と西部戦線の2つの戦線があり、西部戦線では5月7日に停戦協定が締結され戦闘行為終結、停戦は8日発効。ゆえに、5月8日が「終戦記念日」になります。
一方、東部戦線では事情が少し異なりました。
独A.ヒトラー総統は1945年4月20日、ベルリンの総統官邸地下壕にて56歳の誕生日を迎えました。同日、ソ連赤軍のジューコフ元帥率いるベルリン攻略軍はベルリン総攻撃を開始。4月30日には、総統官邸100メートルにまで肉薄。
ヒトラーはその前日、「生きて虜囚の辱めを受けず」と宣言。地下壕にてエバ・ブラウンと挙式後、デーニッツ海軍総司令官を総統後継者に任命して翌日ピストル自殺。新婦も新郎の後を追って服毒自殺。
ゲッベルス後継首相は翌5月1日朝、ベルリン攻略軍との単独講和を試みるも、連合軍側から交渉当事者の資格なしとして相手にされず失敗。家族一同は総統地下壕にて服毒自殺。
翌2日、ベルリン防衛軍バイドリング中将はベルリン攻略第8親衛軍チャイコフ大将と休戦協定を締結、ベルリンにおける戦闘は終了しました。すなわち、ベルリン陥落は5月2日です。
なぜ5月1日がベルリン陥落と報じられることがあるのかと申せば、この日、ベルリンの独国会議事堂屋上に赤旗が翻ったからです。
しかし、この赤旗は議事堂防衛隊により奪取されました。
ドイツ国防軍総司令部統制局長ヨードル上級大将は5月7日、仏ランス村に出向き、連合軍総司令官米アイゼンハワー元帥に降伏を申し入れ、降伏文書に調印。降伏文書は現地時間5月8日午後11時発効。
これが、西部戦線(西欧)において5月8日が戦争終結記念日となるゆえんです。
一方、ドイツ国防軍と赤軍との降伏交渉は赤軍総司令官ジューコフ元帥と独カイテル元帥の間でベルリンにて行われました。
しかし交渉は長引き、降伏文書に調印したのは5月8日深夜となりました。この時モスクワでは時差の関係で既に9日に入っており、これが東部戦線においては5月9日が対独戦勝記念日となるゆえんです。
ちなみに、独デーニッツ元帥と英モントゴメリー元帥の間では、それ以前に北ドイツにおける休戦協定が成立。
バルト海の制空権と制海権が空き、東部に入植した数十万のドイツ人がケーニッヒスベルク(現カリーニングラード)から海路、無事独本国に帰還しています。
上記の流れは、日本が8月14日に受諾したポツダム宣言をソ連(軍)がどのように理解していたかという問題にも繋がります。
