戦世の沖縄 戦後80年 (67) 澤岻 安一さん(102) 中国で従軍 住民から略奪も 戦後 米軍に土地強制接収
伊佐浜闘争に参加した経験を語る澤岻安一さん=6月、宜野湾市の伊佐公民館

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琉球新報朝刊

 「これはもう、大きな罪悪だった」。102歳の元日本兵は語りながら目をつぶった。
 1944年、澤岻安一さん=宜野湾市伊佐=は日本軍第37師団に配属され、中国での「大陸打通作戦」に従軍した。広大な大陸を徒歩で縦断しながら、陸上交通路を確保するのが作戦の目的だった。
 日本軍は補給を軽視し、現地調達という名で食料を略奪した。澤岻さんの所属部隊は中国人集落から略奪を繰り返し、住民に強制的に荷物を運ばせた。
 戦後80年がたち、軍事力を背景に中国住民への蛮行に加担したことへの悔恨の念だった。
 戦後は一転し、澤岻さんは米軍からの実力行使を目の当たりにした。
 1955年7月19日未明、「沖縄一」と称された故郷・伊佐浜(現宜野湾市)の「美田」は米軍のブルドーザーによってつぶされた。澤岻さんも当時現場にいた。
 「軍道1号線(現国道58号)に立ちはだかった米兵が深夜から集まっていた住民を突き飛ばした。そのうち鉄条網で囲いがつくられ、住民は土地に入れなくなった」
 伊佐浜一帯の土地は戦時中に強制接収されて軍用地に指定された。米軍占領後は黙認耕作地となり、戦前から続く稲作が再び行われていた。
 54年から米軍の基地建設の動きを知った伊佐浜住民らは中止や補償、代替地確保などを求めて琉球政府(現沖縄県)や立法院(現県議会)に幾度も陳情した。当時、宜野湾村職員だった澤岻さんはこの陳情を一手に引き受けていた。
 しかし米軍は55年3月には伊佐浜の一部地域で強制接収し、銃剣を持った米兵は住民を殴り倒した。7月には十分な補償もないまま、残る土地も接収した。抵抗のため座り込む住民は追い出され、美田は消された。
 当時、伊佐浜闘争を支援していた人民党の国場幸太郎氏は著書「『島ぐるみ闘争』はどう準備されたか」で、ある長老の悲痛な声を書き残している。「私たちには、もはや、子孫に残す財産もすべて無くなろうとしている。この上は最後まで土地取り上げに反対して闘い抜き、せめて、歴史の上に伊佐浜の名を残そうでないか」
 伊佐浜闘争の翌56年6月、軍用地料の一括払いと新規接収を容認したプライス勧告が明るみとなった。米軍の占領統治に異議を唱える運動は全県的な「島ぐるみ闘争」へとつながっていく。
 沖縄の戦後史に刻まれた運動に、澤岻さんは「伊佐浜闘争が島ぐるみ闘争につながったのは間違いない」と誇らしげだ。一方、戦時中の日本軍の行動や戦後の米軍の強権的統治に触れると「自分は悪い時代に生まれた。やむを得なかった」と口数は少ない。
 美田地帯だった自身の土地はまだフェンスの中にある。その返還時期は「2024年度またはその後」だ。
 1世紀に及ぶ澤岻さんの歩みは戦に翻弄されてきた。澤岻さんは「生きているうちの返還」を望む。だが、いまだ見通せていない。(梅田正覚)

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