人口も経済規模も世界の超大国になりつつあるインド。インドといえばガンジー。しかし、多くの日本人は「聖人」イメージを超える知識に乏しい。『ガンジー自伝』に流れているのは求道者の姿だ。不屈の意思によって人種偏見に立ち向かっていくさまは感動的である。核を持つ隣国同士、インドとパキスタンの戦争が新聞紙面をにぎわせる今、ガンジーが残したものを振り返ってみよう。

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古典に学ぶ現代世界
』(日経プレミアシリーズ)を2025年7月に発売します。

13歳の結婚、そして父の死の日の出来事

 インドが熱い。14億人の人口は中国を抜き世界一に。名目国内総生産(GDP)はかつての宗主国である英国をすでに上回り、間もなく日本とドイツを抜き世界3位に。そして独立時に分かれた隣国パキスタンとは、核を持つ国同士で今なお武力紛争を繰り広げる。

 そのインドを知っているかといわれると、ちゅうちょしてしまう。建国の父であるマハトマ・ガンジー(1869~1948年)は、学校教科書にも載っている偉人なのだが、「聖人」というイメージを超える知識を持っているとは言い難い。

 そんなわけで彼の自伝『
ガンジー自伝
』(マハトマ・ガンジー著/蠟山芳郎訳/中公文庫)をひもとくことにしよう。そこに流れるのは求道者の姿であり、その魂が人々を感化し、やがて大英帝国の土台を突き崩す物語である。自伝は政治運動の成功物語というより、自らの精神の変化を語ることに力点を置いたざんげ録である。

『ガンジー自伝』(マハトマ・ガンジー著)。画像クリックでAmazonページへ

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 当時としては珍しくなかったとはいえ、13歳でガンジーは結婚した。重い痔を患う父をガンジー少年は献身的に看病する。ある晩、その役目を叔父に交代し寝室に戻ると、そこにはかわいい寝顔の妻が。それから5、6分もすると、使用人が父の容体急変を知らせる。

 「もし獣欲に目がくらんでいなかったならば、わたしは父が息をひきとるいまわのきわに父のそばにいなかった嘆きをせずにすんだのだ」。そればかりでない。「妻に生まれたかわいいちびが、三、四日もたたぬうちに息をひき取った」。二重の悲劇は「汚点」として心に刻まれた。このようなざんげを特筆する政治家がほかにいるだろうか。

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南アでの人種差別体験で目覚める

南アでの人種差別体験で目覚める

 それにしても、ロンドンで法律を学び、弁護士資格を得たガンジーは、植民地時代のインドにあっては抜きん出たエリートである。そんな彼の進路を変える決定的な出来事が、英国植民地だった南アフリカで起きた。出張先に向かうべく午後9時ごろ駅に着き、一等車に乗ろうとしたガンジーを駅員が引き留めた。

 「いや、君はだめだ。君はこの客車から出て行け」「ごめんだよ」。押し問答をするうちに巡査がやってきた。「彼はわたしの腕をつかまえて、押し出した。荷物もまた、ほうり出された」。高原の冬、厳しい寒さのなか、ガンジーは一夜を駅で過ごす。

 大英帝国の首都ロンドンでさえ経験しなかった、露骨な有色人種差別を味わったガンジーは決意した。「人種偏見という根深い病気」「わたしはこの病気の根絶やしをやってみるべきだし、そしてそのための苦難は甘受すべきである」と。やがてインド独立の父となる、ガンジーの誕生である。

 彼は当初、大英帝国の模範的な臣民になるよう努め、自らの要求を実現しようとした。オランダ系の移民たちがつくった国が南アフリカからの独立を目指したボーア戦争では、インド系住民からなる衛生兵の部隊を率いて英国側の戦線に立った。先住民であるズールー族の「反乱」に際してもしかりだった。

 ところが植民地政府は、こうした協力に対し「南アフリカのインド人の絶対的な破滅」を招きかねない措置で応じた。インド人はアジア人登録係に名前を登録し、登録証明書の発給を受けなくてはならない。登録に応じなければ、居住権の放棄を求めるというのだ。

 それには従わない。非服従に課せられるあらゆる懲罰は甘受する――。自らが音頭をとった抵抗運動を、ガンジーは「受動的抵抗」と呼んだ。ロシアの文豪、トルストイが用いたこの言葉に、いまひとつしっくりこなかった彼は、やがて「サッティヤーグラハ」という名前を与えることになる。

非暴力の抵抗は臆病な無抵抗ではない

 「真実と愛」「非暴力から生まれる力」といった意味である。非暴力の抵抗というと、下手をすると臆病なおもねりと受け取られかねない。違う。その意味合いをガンジー自身が次のように述べている(「剣の教義」『ヤング・インディア』1920年8月11日号、『わたしの非暴力』森本達雄訳/みすず書房所収)。

 「卑怯(ひきょう)か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている」
 「けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦(ゆる)すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている」
 「力は体力から来るものではない。それは、不屈の意志から来るものである」

 つまり(1)卑怯な無抵抗より(2)暴力を用いた抵抗の方がまだましだが、(3)非暴力的な抵抗こそは暴力にまさる。その非暴力による抵抗には、何よりも不屈の意志が必要になる。ガンジーが「プラフマチャリア」と呼ぶ自己鍛錬こそは、そうした不屈の意志の源である。

 自身に対する厳しい省察(せいさつ)と、衣食住を徹底的にそぎ落としていく求道者の実践は、『ガンジー自伝』の中心的なテーマである。ガンジーは次第に聖者の色彩を帯び、差別的な境遇を運命として諦めていたインド人たちが、彼とともに行進を始める。行進は例え話ではない。

 人々とともにあえて逮捕、投獄されるために大行進を始め、その数の力で植民地政府に音を上げさせ、インド人救済法案を勝ち取るのである。1906年に始めた運動は1914年までの粘り強い戦いで勝利を収める。南アでの勝利をもたらした運動の方式を、ガンジーはインドでも繰り返すことになる。

 非暴力による抵抗によって実現したインドの独立。多くのガンジー物語は輝かしい筆致で記す。だが、同じ英国植民地からなぜインドとパキスタンが分かれて独立し、今なお厳しく対立するのか。ヒンズー教とイスラム教の対立を利用した英国の分割統治にその主因があるにせよ、なおモヤモヤが吹っ切れない。

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寛容の主張が招いた歴史の逆説

寛容の主張が招いた歴史の逆説

 南アジア研究を専門とする間永次郎の『
ガンディーの真実 非暴力思想とは何か
』(ちくま新書)は目からうろこの謎解きをしてくれる。ガンジーが寛容の精神を強調するあまり、1921年に起きたイスラム教徒による1万人規模のヒンズー教徒の大量殺害を黙認する姿勢をとった。

 「驚くべきことに、ガンディーはこの大規模殺りくが起こった宗教闘争を『勇敢な行為』として称賛した」。その反動として、イスラム教徒の脅威を訴えるヒンズー至上主義の「民族奉仕団」が台頭し、ガンジー自身も1948年1月30日にその元メンバーの銃弾に倒れた。

 現在のナレンドラ・モディ首相の与党であるインド人民党は、民族奉仕団の流れをくむ。歴史がはらむ逆説は現在をしっかりとつかんで離さない。インドが大国となった今、建国の父の放つ光と影を見つめる作業は欠かせないように思える。

写真/スタジオキャスパー


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