三月二十三日艦砲射撃開始とともに、知念村役場は、同地守備隊の井上部隊の壕に合した。村長は、井上部隊長の命令で村内の兵員補充、食糧補給の任務を負わされたからである。

 軍隊に直接協力できぬ村民は、三月中に部隊壕附近の山手に退避し、四月上旬からは佐敷(さしき)台上にぞくぞく移動を開始していた。村民の男子で組織された防衛隊は、台上の部隊に対して、リレー式の糧秣運搬に従った。

 米軍が未だ上陸しなかった三月中旬頃、この村では、自国の軍隊の手によって、三人の犠牲者が血祭りにあげられた。三人とも部隊長の怒りをかい、村民への見せしめと称するきつい命令で、殺戮が行われたのである。村民の与那城伊清は、部隊とのある公けの席上で、日本軍の高射砲の命中率が悪いのは、一体どうした訳かと反問したためであった。前城常昂は、部隊に納めた、薪代を請求したため、村会議員、大城重政は部隊の兵隊が無断で、村民の家畜を運び去るのを、強談判したため、何れも射殺された。部隊長がいう極刑の罪名は「スパイの疑いあり」であった。

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