近年の精神医学の大きな発見のひとつは、うつ病などの精神疾患(の少なくとも一部)に、脳の炎症がかかわっているというものだ。精神科医モンティ・ライマンの『脳のなかの免疫、免疫のなかの心』(塩﨑香織訳、佐々木拓哉解説/みすず書房)は、最先端の知見にもとづいて、免疫系が脳(こころ)に影響を与えているだけでなく、そこには腸内の微生物叢(びせいぶつそう)であるマイクロバイオームも関係していると述べている。


 原題は“The Immune Mind; The Hidden Dialogue Between Your Brain and Immune System(免疫のこころ あなたの脳と免疫系のあいだの知られざる対話)。なお、免疫と脳の炎症との関係については下記で紹介した。


【参考記事】

●精神疾患、発達障害、認知症に脳の自己免疫疾患が関係していた。精神医学の常識を根底から書き換える「ミクログリア革命」とは?


 ライマンが本作の前に、身体的な炎症と痛みについて書いた『痛み、人間のすべてにつながる 新しい疼痛の科学を知る12章』(塩﨑香織訳/みすず書房)は下記で紹介している。


【参考記事】

●「痛みは100パーセント脳でつくられる」最新の知見を基に身体の炎症度を下げるような生活を心がけるべき



「病は気から」という古来の知恵が科学によって証明されつつある

 10年ほど前までは、医学の教科書には「脳には免疫特権がある」と書かれていた。身体の炎症によるダメージが貴重な組織である脳に及ばないようするために、脳には免疫細胞が常駐しておらず、なおかつ身体の免疫細胞が組織に入ってくることもないというのだ。「血液脳関門」は脳の検問所で、通過を許可されるのはアルコール・ニコチン・カフェインのような水溶性の小さな分子や、脳の栄養となるグルコース(ブドウ糖)、アミノ酸だけで、細菌、ウイルス、タンパク質のような大きな分子は通過できない。好中球(白血球)、マクロファージ、T細胞、B細胞などの免疫細胞もこの関門でブロックされる。


 だがこの常識は、2014年に髄膜リンパ管が発見されたことで大きく書き換えられることになる。髄膜リンパ管は硬膜(脳を包んでいるいちばん外側の硬い膜)の血管に寄り添うように走っていて、首のリンパ節(深頭リンパ節)につながっていたのだ。


 脳脊髄液(CSF)は脳室の奥深くで産生され、脳組織を洗浄したあと、髄膜リンパ管を通って排出される。いわば「脳の排水管」だが、そこには老廃物である無数の極小分子が含まれている。身体の免疫細胞は脳組織に直接アクセスすることはできないが、脳の排水を常時モニターすることで脳の状態を把握しているのだ。


 それに加えて、頭蓋骨のなかの骨髄で免疫細胞がつくられ、「頭蓋チャネル」という一種のトンネル(頭蓋骨の骨髄と、脳を包む髄膜をつなぐ微細なルート)があり、脳梗塞や脳に強い外傷が起きると、このトンネルを通ってマクロファージや好中球、B細胞が患部に集まってくることも確認されている。


 これまでの脳科学では、信号を化学的に伝達するニューロン(神経細胞)の研究が主で、それを包むグリア細胞は糊(のり)のようなものだとされてきた(gliaはギリシア語の糊)。だが近年、グリア細胞が脳の活動の維持に重要な役割を果たしていることがわかってきた。そのなかでもミクログリアは脳内の免疫細胞で、胎児期の原始的なマクロファージから発生し、血液脳関門が形成される前に脳に移動する。


 ミクログリアはウイルスや細菌、壊れた細胞などの異物を捕らえて飲み込むだけでなく、脳が活動する過程で出るアミロイドβなどの老廃物を除去する。


 シナプス・プルーニング(剪定)は、出生時から幼少期にかけて使われていないシナプスを刈り込んで脳の処理速度を上げることだが、これもミクログリアの仕事だ。使われていないシナプスが補体タンパク質でコーティングされると、ミクログリアが現われてそのシナプスを飲み込み破壊する。「ミクログリアは脳のマクロファージに相当する細胞というだけでなく、脳の彫刻家・造形者だった」とライマンはいう。


 このようにミクログリアは、脳の健康や発達に重要な役割を果たしているが、過剰に活性化すると逆に脳を傷つけることになりかねない。


 サイトカインは細胞同士の情報伝達に使われる微小なタンパク質だが、ミクログリアはサイトカインを産生すると同時に、その受容体を多くもっている。ミクログリアがなんらかの異常を感知すると催炎症性サイトカインが産生され、脳の炎症を引き起こしてしまうのだ。


科学的に証明されつつある「病は気から」。炎症を起こさないようなライフスタイルで身体や脳の健康に大きな効果もLiliia Olhova / PIXTA(ピクスタ)


 ミクログリアは脳内の異常だけでなく、さまざまなるルートで身体の異常もモニターしている。


 2021年の研究では、マウスに刺激性の化学物質入りの水を飲ませて、腸が炎症を起こしたときに脳内で活性化される島皮質のニューロンを特定した。研究者が次に、炎症から回復した健康なマウスの同じニューロンを刺激したところ、腸に同様の炎症反応が起きた。「脳は炎症が起きたことを記憶にとどめていたのではなく、それがどこで起きたかを正確に覚えていて、体内の環境からの誘因がないにもかかわらず、同じ炎症を生じさせた」のだ。


 このように、脳と身体の免疫系はつながっていて、相互に影響を与えあっている。「病は気から」という古来の知恵が科学によって証明されつつあるのだ。



脳の発達や健康の維持に腸内細菌が影響していることがわかってきた

 さまざまな細菌が病気を引き起こすことから、医学ではずっと細菌は悪者だった。この信念は、細菌を効果的に殺す抗生物質が炎症性の疾患に奇跡のような効果を発揮したことで確固としたものになった。


 だが20世紀半ばに、無菌状態で育てられ、体表や体内のどこにもウイルス、細菌、真菌、寄生虫などがない超衛生的な「無菌マウス」がつくられたことで、この常識が揺らぎはじめた。無菌マウスは通常のマウスよりストレスホルモンの濃度が異常に高く、ストレス反応が過敏だったのだ。


 さらに、無菌マウスでは学習や記憶の形成にかかせないタンパク質である脳由来神経栄養因子(BDNF)が少なく、扁桃体が大きく構造にも複数の異常が認められ、前頭前野がかなり特殊であることもわかった。当初、無菌マウスは不安を感じにくいように見えたが、これは音と痛みの結びつきを学習できないなど、脅威をもたらす刺激を識別する能力が損なわれているからだった。


 興味深いのは、無菌マウスに「プロバイオティックな」(健康によい効果をもたらす)細菌を与えると、ストレスホルモンが通常のマウスのレベルまで下がったことだ。逆に、健康なマウスに抗生物質を長期間投与して腸内細菌を除去すると、脳と行動に無菌マウスで見られるものに近い劇的な変化が起きた。


 このような研究を通して、脳の発達や健康の維持に腸内細菌が影響していることがわかってきた。


 迷走神経は脳から出ている12対の脳神経のなかでもっとも長く、複雑に枝分かれして内臓のあちこちを「迷走」しているように見えることからこの名がつけられた。迷走神経は主要な副交感神経でもある。


 迷走神経のなかでも腸と脳を結ぶ回路はもっとも多く、「脳腸相関」と呼ばれる。腸の迷走神経は、栄養の吸収具合や炎症の有無、満腹感などを脳に伝えている。この情報伝達を受けて、脳は消化液の分泌を促したり、腸の動きを活発にしたりする信号を出す。「緊張するとお腹が痛くなる(脳→腸)」や「便秘が続くと気分が落ち込む(腸→脳)」はここから説明できる。


 水溶性食物繊維や難消化性デンプン(レジスタントスターチ)、オリゴ糖などは健康維持に重要な栄養素だが、胃や腸の消化酵素では分解できない。そこで、身体にとって必要不可欠な分子の産生を腸内の微生物に「外注」するようになった。腸は一種の発酵工場なのだ。


 わたしたちの体内や体表には、身体を構成する細胞と少なくとも同じくらい、おそらくはそれ以上の数の微生物が生息している。ライマンは、「あなた自身が生命の泡で覆われたひとつの世界、多種多様な生態系と生物群系(バイオーム)を宿す惑星」だという。


 さまざまな研究が、脳が迷走神経を介して、マイクロバイオーム(腸内の微生物叢)が産生する分子を感知していることを示している。こうした細菌たちが、脳とこころの健康に大きな影響を及ぼしている可能性があるのだ。


 抑うつ状態を抱えたヒトの微生物叢をラットに移植したところ、ラットにうつ行動が引き起こされた。ASD(自閉症スペクトラム障害)のひとのマイクロバイオームを若いマウスに移植したところ、反復行動が現われ、社会性の低下が見られた。「ASDを抱える人はそうでない人よりも腸マイクロバイオームの多様性が低い」という報告もある。


 興味深い仮説としては、「微生物は自らが移動し繁殖する能力を最大限に活用するために宿主の社会性を高めている」というのがある(親密なキスを10秒間交わすと、およそ8000万個の細菌が受け渡しされる)。うつ病やASDでは社交性が大きく下がるが、その要因の一部にマイクロバイオームが関係しているかもしれない。


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