稲毛にあった「陸軍防空学校」と戦後復興 市民がたどる街の記憶

(千葉市現代史を知る会・アトリエくすの木)

 かつて千葉市稲毛の地には、旧陸軍の防空教育の中枢「陸軍防空学校」が存在していました。戦時中、全国から将校や兵士が集まり、対空戦の理論や防空技術の訓練が行われた場所です。現在は住宅地として静かな街並みが広がりまが、かつての敷地はこの地域一帯に及び、当時の地図を重ねると、戦時下の緊迫した空気がよみがえってきます。

 この知られざる地域史を伝える展示会「稲毛にあった陸軍防空学校と戦後復興」が、稲毛区のアトリエくすの木で開かれています。主催は、市民グループ「千葉市近現代史を知る会」会員が長年にわたり調べてきた資料や証言、写真、地図をもとに、戦時と戦後を通して稲毛の街の変化をたどります。

 今日は「千葉市近現代史を知る会」の会長であり、会場のアトリエくすの木のオーナーである市原徹さんにお話をお伺いしました。実は以前にも「千葉の明治期 赤レンガ建物比較展」の取材をさせていただき今回でニ回目の訪問です。住宅街の中でひときわ目を引く大きなくすの木。その木の下にあるのが、温もりあふれる「アトリエくすの木」。まるで自然とアートが共存する小さなオアシスのような場所です。

 

とても居心地の良いアトリエくすの木の空間とても居心地の良いアトリエくすの木の空間

 

ちらし 表ちらし 表ちらし 裏ちらし 裏

 展示の前半では、防空学校の設立経緯や施設の配置を紹介。当時の航空写真や古地図、卒業記念の集合写真などが並ぶ。戦時中、地元住民が土地を接収され、学校建設に協力した記録や証言も残されており、地域が戦争の渦中にあったことが伝わります。

 さっそく市原さんにお伺いしました。
「ここ稲毛に防空学校があったなんて知らなかった、という声をよくいただきます。
地元の足元にあった戦争の歴史を“自分ごと”として感じてもらいたいのです。
そして、戦後にこの地域が住宅地として再生していった復興の歩みを、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。」

どのような経緯で稲毛に防空学校が設置されたのですか?

「資料によると、当時この地が選ばれたのは”帝都・東京に近く、いざとなれば首都防空に有効”という理由からだったようです。
さらに近隣には下志津飛行学校や毒ガス研究所、国府台の高射学校などがあり、軍の連携が取りやすい立地でもありました。
当時の稲毛周辺は住居が点在し、田畑が広がるだけの地域。広い土地を比較的容易に買収できたことも設立の背景にあったとされています。この地図を見ていただいたらわかりますが、軍都の多くは稲毛区にありました。そして、戦後の稲毛では、こうした軍事施設をどのように活用していくのか。それが地域に大きな課題になって行きます。」(これは後半に続きます。)

 赤で囲まれた所が陸軍施設。青で囲まれたところは軍関連施設です。(昭和20年 終戦時の陸軍施設を現在の地図に表記したもの)防空学校は⑩⑪あたりになります。

 こちらは精巧に作られた1943年当時の防空学校のジオラマです。草野水路を隔てて

下は陸軍防空学校(現在の稲毛図書館あたりが正門です。)上は幹部候補生隊(現在の園生小学校、小中台中学校、市立千葉高校あたり)です。

防空学校の生活防空学校の生活精巧に作られた陸軍防空学校のジオラマ精巧に作られた陸軍防空学校のジオラマ

 そして興味深いのはB29が高度3000メートルで飛来した時の再現です。天井あたりにB29が取り付けてあり、これを高射砲で狙っていたのがよくわかります。

これは市原さんの説明動画を御覧ください。大変わかりやすいです。

 夜間にはサーチライトで空を照らし、聴音器で敵機の高度や位置を探り、高射砲で迎撃していたといいます。しかし、当時の技術では命中精度が低く、実際に撃ち落とすことはほとんどできなかったそうです。

当時の少年雑誌から当時の少年雑誌から高射砲 これを読んだら敵の飛行機が飛んできたらみな撃ち落とすと思いますね。高射砲 これを読んだら敵の飛行機が飛んできたらみな撃ち落とすと思いますね。

そして、こちらは今で言うと大型のプロジェクター。空に敵機に見立てたものを投影して攻撃の練習をした謎の建物です。

実際にあった建物の模型実際にあった建物の模型

 会員さんが所有されている貴重な当時の雑誌です。

軍事一色のカルタもあります。軍事一色のカルタもあります。

  そして7月7日の七夕空襲でも防空学校は甚大な被害を受けました。

バツ印は消失した建物です。バツ印は消失した建物です。

そして展示の後半は、終戦直後の復興に焦点を当てています。防空学校跡地は、復員兵や引揚者の住宅地として再利用され、やがて学校や公園、団地が整備された。焦土から立ち上がった人々の姿を、当時の写真や手記が静かに物語ります。「戦後の人々の生きる力、再出発への希望を感じてほしい」と市原さんは語られました。

 「留守業務部」という組織があったようですが、これはどんな組織ですか?

 「はい、終戦後、防空学校の本部には「留守業務部」というものが入ってきました。昭和20年のことです。これは外地にいる兵隊の記録と留守家族への給与の支払い等をするための組織なんです。もとは市ヶ谷の陸軍省にあった組織でここ稲毛に移ってきたのです。陸軍省は解体されたので厚生省管轄になりました。こちらは当時帰還兵が同僚の安否を確認する手紙を留守業務部に送ったものです。このような問い合わせがいっぱい来たそうです。」

 「演習地であった所には復興住宅地ができ、他のところは開拓団というものが形成されました。これは当時の食糧難に対応するために農地にするのが目的でした。そして小学校や中学校、東大の寮なども建設されました。時代とともに留守業務部の仕事は縮小され、その後には千葉大学の文理学部が借りるようになりました。」

当時の復興住宅 2つのタイプがありました。当時の復興住宅 2つのタイプがありました。復興住宅の模型です。復興住宅の模型です。

「防空学校跡地は計画的に区割りされ整備されていきました。丸善中央研究所が出来たのですが、景気の後退に伴い縮小化することになりました。」

1945年頃の様子です。1945年頃の様子です。

 「そして、その跡地に、国家公務員住宅を建設する計画が持ち上がりました。
しかし、それに反対したのが地元の市会議員 林三蔵氏です。市庁舎内でも“カミナリ議員”として知られ、発言力のある存在でした。林氏は「ここには住宅ではなく、市民が集う文化的な公園と図書館をつくるべきだ」と主張し、計画に異を唱え実現させたのです。

現在、公民館、図書館、なかよし公園があるのは林議員の功績が大きく、この人がいなければ現在のような街なみにはなっていなかったでしょう。」

小中台に大きな足跡を残した林三蔵市議小中台に大きな足跡を残した林三蔵市議

 千葉市現代史を知る会は、戦争や開発など、千葉の近現代史を市民の視点で掘り下げてきた団体です。これまでにも「千葉空襲」や「米軍検見川通信所跡」「稲毛海岸の開発史」など、地域の歩みを伝える展示を続けてきました。
「専門家ではなく市民が調べるからこそ、街の記憶に寄り添える」と、市原さんは語ります。地道な調査を積み重ねることで、失われつつある戦争遺構や人々の記憶を、後世へとつなげているのです。

 過去の展示会場では、地元の中学生や親子連れの姿も見られました。古地図を手に「この辺が昔、防空学校だったのか」と驚く声が上がる光景も想像されます。戦争を体験した世代が少なくなるなか、こうした市民の活動が“記憶の継承”を支えているのです。

戦争の記憶を掘り起こし、復興の歩みを語り継ぐ今回の展示。
地域の足元に眠る歴史を知ることが、平和の尊さを改めて考える第一歩になる――そう感じながら、私はアトリエくすの木を後にしました。

市原さんの執筆された「千葉市小中台町850番地の歴史」こちら会場で閲覧できます。是非御覧ください。市原さんの執筆された「千葉市小中台町850番地の歴史」こちら会場で閲覧できます。是非御覧ください。

 取材協力いただいた

「千葉市現代史を知る会」代表、アトリエくすの木オーナ 市原徹様です。

【展示情報】
「稲毛にあった陸軍防空学校と戦後復興」
会場:アトリエくすの木(千葉市稲毛区小仲台3-16-7)

電話:043-216ー5571
主催:千葉市近現代史を知る会 代表 市原徹様
期間:10月11日~11月16日 10時~18時

 水曜日、木曜日は休館です。  ※入場無料

アトリエくすの木HP Home | atelier KUSUNOKI

前回取材時の記事です。

【千葉市稲毛区】アトリエくすの木で日本レンガ建築の発展と変遷に迫る!(トラッキー) – エキスパート – Yahoo!ニュース

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