神奈川県原爆被災者の会 新宅さん 語らなかった父に思い馳せ〈横浜市港南区・横浜市栄区〉

守さんが被爆した被服支廠/平和記念式典での友穂さん

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 「神奈川県原爆被災者の会」に所属する港南区在住の新宅友穂さん(71)は、核兵器廃絶に向けた平和活動に取り組んでいる。新宅さんは昨今の国際情勢を受け、「ウクライナやガザのことが報じられる中で、『核』を国家間の抑止力と捉える人も増えているのではないか。若い人が改めて、核について考えることが重要」と、若年層に平和の大切さを伝える必要性を訴える。

 広島市に生まれ、高校を卒業するまで暮らしていた友穂さん。父・守さんは広島市で17歳の時に爆心地から約2・7Kmの旧陸軍被服支廠(広島市南区)の地下室で被爆した。大きなけがはなかったが、皮膚へのダメージは残った。「よく肌が荒れて、薬を塗っていた姿を見かけた」と友穂さん。しかし、守さんが家族に被爆体験を語ることはなかった。「父からは『地下で被爆した』としか教えてもらえなかった。温和な人だった」。静かな父の姿が印象に残っているという。

父が被爆した地へ

 神奈川県原爆被災者の会役員の講演を聴いたのをきっかけに4年ほど前に同会へ加入。2024年の春から、退職を機に本格的に活動を始めた。

 そこで会員から教わったのが守さんの被爆者健康手帳の申請書を開示請求すれば、当時の被爆状況を調べられるということ。友穂さんは父が被服支廠で被爆したことを初めて知り、24年夏に現地へ足を運んだ。住宅街に突如現れるレンガの被服支廠には、爆風や熱によって歪んだと思われる鉄の扉があり、半開きになっているものも。「実際に建物を見た時、父は語らなかったのではなく“語ることができなかった”のだと思った」

 また友穂さんは被服支廠が臨時の救護所となり、避難してきた多くの人が力尽きた記録が残っていることにも思いを馳せ、「建物の中も外も衝撃的な景色が広がっていたはず。怪我の無かった父は救護の手伝いをしていたかも。父は当時のことを思い出したくない。思い出そうとしても上手く言葉にできなかったのだと思う」と気持ちを汲み取った。

平和への決意固め

 その翌年には広島の平和記念式典に県の遺族代表として参列。自身も初めての参加となった式典は厳かな雰囲気で執り行われ、犠牲者に花を手向けた。「平和な世界と核兵器廃絶に向けて、改めて決意を固める機会になった」と振り返る。

 「被爆者、二世・三世は退職後の70代から、平和活動に従事する人も多い。父ももっと生きていたら、私と同じような活動をしていたかもしれない」。現在、友穂さんは同会の二世・三世支部の支部長として、講演会や展示会の企画などにも取り組んでいる。「原爆はその時だけの話ではない。後世にも多大な影響を与えるもの。多くの人に自分事として考えてもらえるきっかけを作りたい」と今後の活動に意欲を示した。

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