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一般の人が“名建築”として思い浮かべる建物は、いわゆるアトリエ系建築家が設計したものとは限らない。大組織に属する設計者がチームで実現した建築にも、世に知ってほしい物語がある。大成建設が設計を手掛けた名作・近作をリポートする本連載。今回は「東京経済大学本館」を訪ねた。
[協力:大成建設設計本部]

 「東京経済大学」の国分寺キャンパスというと、建築が好きな人は、鬼頭梓氏(1926~2008年)が設計した「図書館」(1968年竣工、現・大倉喜八郎 進一層館)を思い浮かべるのではないか。“図書館の鬼頭”と呼ばれた鬼頭氏の代表作で、日本建築学会賞作品賞を受賞している。もちろんそれも素晴らしいのだが、今回の目的地はそれではない。その9年前に完成した「本館」(現1号館、1959年竣工)だ。

(イラスト:宮沢洋、以下も)

 設計・施工は大成建設。え、知らない? 実は、筆者も知らなかった。しかし、調べてみると、1960年に第1回「建築業協会賞」(現在のBCS賞)を受賞している。

 「第1回」なので、受賞作の並びがとんでもない。

日本電波塔(東京タワー)/設計指導:内藤多仲、設計監理:日建設計工務
日本生命保険相互会社南館/設計:日本生命保険相互会社不動産部
法政大学校舎/設計:大江宏建築事務所
香川県庁舎/設計:丹下健三計画研究室
八幡市民会館/設計:村野・森建築事務所
慶応義塾三田校舎/設計:三菱地所
新朝日ビルディング/設計・施工:竹中工務店/設計・坂倉準三建築研究所
横浜シルクセンター国際貿易会館
新住友ビルディング/設計:日建設計工務

 建築史の教科書を見ているみたいだ。これら9件と並んで第1回受賞作に選ばれたのが、東京経済大学本館である。

メインストリートに面した北側外観(写真:宮沢洋、以下も)

 選考委員の1人である建築家・土浦亀城(かめき)がこの建築について書いた「講評」を読んで、また驚いた。全文を引用する。

「学校は常に出来る限り安く建てる事が要求される。この建物は設計と施工を一社が一貫して行ったが為に、その点の工夫が非常に積極的であり、かつ成功していると思われる。柱の間隔は縦横共に9.6m、小梁の間隔、サッシュの幅等全部1.2mの倍数にしてある。教室の幅は9.6mかその一倍半か二倍、2.4mの廊下をとった所は7.2mに統一されている。床は梁の丈を同じにした格子梁を用いてあるので、間仕切壁の高さは全部同じで4×6尺のボード、ベニヤ板等を切り落とししないでそのまま使う事が出来る。サッシュは3×4尺の工場サッシュをニ段にし、1×3尺のガラスで全館が出来ている。その他隅々まで行届いた工夫と入念な施工がほどこされて、その出来ばえも又優秀である。よって本会はこの建築に優良建築賞を贈る。」

 絶賛である。日本のモダニズム建築を切り開いた土浦に、これほど“用の美”を評価されるとは…。

 実物を見ると、確かに土浦の印象通りの建物だった。4階建て・陸屋根の外観は、コンクリ-トの柱梁と手すり、ガラス窓だけのシンプルな構成。全体では水平性を強調しつつも、柱の周辺では縦ラインを細かく入れ、垂直性を意識させる。間接的に「和」を感じさせる全体のプロポーションは、同じ年に建築業協会賞を受賞した丹下健三の香川県庁舎にも通じる。香川のような派手さはないが、現実(経済性)に根差した誠実さと気品に満ちている。

南東側から見る

 鬼頭梓氏がこれに影響を受けて、コンクリートの構造美を全面に打ち出した図書館を設計したことは間違いないだろう。

鬼頭梓氏が設計した「図書館」(1968年竣工、現・大倉喜八郎 進一層館)

大倉喜八郎が赤坂の自邸隣地に創設した大倉商業学校が前身

 東京経済大学は、1900(明治33)年、実業家の大倉喜八郎(1837~1928年)により当時の赤坂葵町に創立された大倉商業学校が前身だ。創立時の敷地は、大倉喜八郎の邸宅(現在はホテルオークラや大倉集古館が立つ)の隣接地だった。

 1944年に大倉経済専門学校(大倉経専)に改称後、1945年5月の空襲で校舎が焼失。終戦翌年の1946年に国分寺へ移転した。場所は国分寺崖線(多摩川が刻んだ河岸段丘)が貫く約4万8900m2の広大な敷地だ。その3年後の1949年に大学に昇格。現在の東京経済大学となった。

 国分寺に移転したことで敷地は広くなったが、戦後の厳しい経済状況下で、十分な学業環境とは言えない時期が続く。校舎を近代的建物に一新したいと考えた当時の北沢新次郎学長は、寄付金と銀行への借入金により、1959年に本館を建設した。

 保管されている図面によれば、設計の中心になったのは大成建設設計課の大熊喜英(1905~84年)である。大熊は、「国会議事堂」の実施設計の中心になったことで知られる大熊喜邦を父に持つ。早稲田大学建築学科で今井兼次らに学び、1932年に大成建設(当時は大倉土木)に入社。「ホテルオークラ」や「ホテルニューオータニ」の中心になった清水一(はじめ、1902~72年、こちらの記事参照)の3歳下で、ともに戦前・戦後の大成建設設計部門を支えた。

 といっても、大熊の実作として有名なのはほとんどが個人住宅だ。それも豪邸ではなく、素朴な木造の民家。写真を見ると、一見、何の変哲もない普通の家にも見える。その作風は「大熊スタイル」と呼ばれ、建築史的には「日本的な住宅のひとつの型を戦後復興期に確立した」と評されている。定規を使わない、温かみのあるパースの書き手としても有名だった。

 華やかなホテル建築を切り開いた清水一と、日常に根差した大熊。同時代に対照的な2人が大成建設の設計部門をリードしていたことは興味深い。

 残念ながら、大熊がこの本館について記した文章は残っていない。だが、大熊がそんな人だったということを知ると、本館も実に「大熊らしい」と思えてくる。

 1959年に完成した本館は鉄筋コンクリート造、地下1階・地上4階。延べ面積7346m2。地上階には大小あわせて24の教室と教員研究室・事務室、地下にはサークルの部室が設置された。

 平面はこんな形↑だ(竣工当初)。土浦が講評の中で説明したように、教室の幅は9.6mか、その1.5倍もしくは2倍で統一されている。サッシの幅は全て1.2mの倍数だ。基準の9.6mを8で割ると1.2mとなる。1.2mは尺でいうと4尺だ。きれいに割れる。

 もちろん、そんな割り算は言われなければわからない。それでも、「何かのルールがもたらしたであろう秩序」は、建物内を歩いていれば自ずと感じられる。

1階北側のエントランスホール。竣工当初は中央に“見せ場”となる階段があった

2階の学生ラウンジ。かつては1階エントランスの階段から直接ここに上がることができた

4階の大教室

シンプルだが丁寧にデザインされた階段

1階の理科教室は階段状の大教室。この上は光庭で、トップライトから光が入る。机・椅子も竣工時のまま。この部屋は現在・授業では使用していない

1尺×3尺のガラスの大きさから建物の大きさを決めた?

 再び香川県庁舎(1958年)の話になるが、丹下は香川の設計の際、ル・コルビュジエの「モデュロール」を応用した“丹下版モデュロール”を細部にまで適用した。コルビュジエが黄金比と自分の身長に基づいて定めた「美しい寸法の組み合わせ」を、日本人向きにアレンジしたものだ。具体的に言うと、香川県庁舎では300、600、900、1500と、450、750、1200、1950という2系列のフィボナッチ数列を用いた。丹下はその寸法体系が、1つの建築を超えて都市レベルにまで展開できる、と考えた。

 そうして生まれたデザインは、国の重要文化財になるほどに美しいわけだが(2021年に指定)、施工する側にとっては甚だつくりにくかったという話が伝わる。それはそうだろう。それぞれの数字が整数倍にならないのだから…。

 この本館の竣工時の写真を見ると、大熊らしさは改修されてしまった部分でも発揮されていた。サッシが当初のスチールサッシからアルミサッシに変わったことにより1枚の窓ガラスとなっている部分だ。よく見ると、上下2段に分かれ、さらに横4枚に細かく分割されているではないか。

竣工当初の本館の外観写真(写真:東京経済大学)

上の写真の3~4階の窓回りを拡大したもの(写真:東京経済大学)

 土浦亀城の講評の中に、「サッシュは3×4尺の工場サッシュをニ段にし、1×3尺のガラスで全館が出来ている」と書かれていたのはこのことか。開口部の1ユニットは高さを3尺とし、幅は1.2mを4つ割りにすることで、1尺×3尺のガラスを並べて入れていたのだ。その方がガラスが安かったからだろう。そして、ガラスを小割りにすることで「和」の雰囲気も漂う。

 逆に考えると、この建築は「1尺×3尺のガラス」を基準に窓の大きさが決まり、それを整数倍して柱割りが決まり、建物の大きさを決めた、ということになる。つくりやすさの中に美しさを求めたのだ。

現在、窓回りはアルミサッシとなっている。このガラス1枚分が当初は8枚で構成されていた

ガラスの割り付けの細かさは当初に比べると減じた。それでも、柱の両側の縦長の面により、今も柱の垂直性が強されて見える

 実は、本館を絶賛した土浦亀城も、戦前に大倉土木に籍を置いていた。土浦は1897年生まれで、アメリカのフランク・ロイド・ライトの事務所(タリアセン)で働いた後、1926年に大倉土木に入社した。1934年に大倉土木から独立して、土浦亀城建築設計事務所を設立する。有名な土浦亀城邸が竣工するのはその翌年(1935年)だ。

 大熊は1932年に大倉土木に入社しているので、土浦と2年かぶっている。当然、若き大熊は8歳上の土浦から多くの刺激を受けただだろう。それから四半世紀がたち、本館に対する土浦の賛辞を目にしたとき、大熊はどんな気持ちだっただろうか。

「秩序」によって解かれた空間の心地よさ

 現在、本館の目の前に、大成建設の設計・施工による「葵テラス」の工事が進んでいる。創立120周年記念事業の一環として、1期工事の「葵テラスEAST」が2026年9月に、2期工事の「葵テラスWEST」は2028年9月に利用開始となる予定だ。今回は、その担当者である大成建設設計本部建築設計第五部の西尾吉貴設計室長が、大学の職員とともに本館を案内してくれた。

西尾吉貴氏

 西尾氏は大先輩が設計した本館についてこんな感想を語る。「設計者は本能的に秩序を求めるものだが、この建築はプランから細部に至るまで、見事に秩序によって解かれている。それが押しつけがましくなく、心地いい」。

 まさにその通りだ。そして、西尾氏が設計する「葵テラス」も、完成イメージ図を見るとそんなものになりそうな予感がする。

「葵テラス」の完成イメージ図。1期工事の「葵テラスEAST」(右側)が2026年9月に、2期工事の「葵テラスWEST」は2028年9月の利用開始予定(資料:大成建設)

 キャンパスの再整備が進む中で、本館の将来はまだ具体的には決まっていない。東京経済大学の田口修・常務理事はこう話す。「創立130周年(2030年)、140周年(2040年)に向けてこれから議論になると思うが、個人的には今後も使えるものならば使っていきたい」。

国分寺キャンパスの全体像について説明する田口修・常務理事。写真手前の空地部分に「葵テラス」ができる。その手前はJR中央本線

1階の壁に書かれたメッセージの意味は?

 ところで、学生も教員もほとんどの人が意識していない(おそらく意味も知らない)と思われる本館1階のこのメッセージ↓は何か。

 これは、本館竣工当時に学長だった北沢新次郎氏(経済学者で社会運動家、1887~1980年)が選んだ言葉だという。

「LET AGE SPEAK THE TRUTH AND GIVE US PEACE AT LAST!」

 19世紀のイギリスの詩人、ロバート・ブラウニング(1812~1889年)が書いた『ラビ・ベン・エズラ』の中の一節だ。 ロバート・ブラウニングは夏目漱石や芥川龍之介が強い影響を受けたことでも知られる。

 タイルの表面に白で書いたように見えるが、文字の部分が浮き上がるように立体的に焼かれている。それくらい強い思いで伝えたかったメッセージの意味を、最後に日本語でお伝えしておく。

 「歳月が真実を語り(LET AGE SPEAK THE TRUTH)、ついに私たちに安らぎを与えてくれるでしょう!(GIVE US PEACE AT LAST!)」

 SNSがフェイクを拡散し、世界が分断に振り回される時代に、このメッセージは重い。真実を語り、安らぎを与えてくれるのは「AGE」なのだと…。この建築がこれからもキャンパスの精神的支柱として生き続けることを祈っている。(宮沢洋)

大学に保管されている「第1回建築業協会賞」の賞状

案内してくれた虎見氏、田口常務理事、船木管財課長(左から)

■概要データ
所在地:東京都国分寺市南町1-7-34
発注者:東京経済大学
設計:大成建設
施工:大成建設
構造:鉄筋コンクリート造
階数:地下1階・地上4階
延べ面積:7345m2
工期:1958年4月~1959年4月

■参考文献
一般社団法人日本建設業協会公式サイト「第1回建築業協会賞」(1960年)

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