文章の間違いや誤字脱字を正す特異な技量を持ち、戦前に「校正の神様」と呼ばれた
神(こう)代(じろ)種(たね)亮(すけ)
(1883年~1935年)に送られた手紙やはがきなど約400通が現存することが分かった。芥川龍之介や谷崎潤一郎など、著名な作家の書簡も含まれる。近代文学の世界で、ある校正者がどのような立ち位置を占め、大切にされたかを示す貴重な資料だ。
『鼓動』葉真中顕著
芥川龍之介が神代にあてた手紙 書簡は神代の孫、聡さん(62)の自宅に保管されていた。秀明大学の川島幸希名誉学長が調査し、現在ほかの研究者とともに、詳しい分析が進められている。
その中には、主に大正から戦前の昭和にかけ、約20人の作家らから届いた200通以上の書簡が存在していた。詩人で評論家の大町桂月のものが90通以上を数え、谷崎は25通あった。永井荷風や島崎藤村のほか、20歳以上年長の坪内逍遥とも、かなり年下の佐藤春夫や堀口大学、井伏鱒二ともやり取りしていた。 内容からは、仕事上のやり取りだけでなく、神代と作家たちとの親密な関係が伝わってくるという。 「ゆうべ遅かつた為まだねてゐますこの手紙は仰向けになつたまま書くのです」 本が出ると彼に校閲を求めたと伝えられる芥川は、ユーモアを交えて近況を記していた。谷崎から1924年に送られた複数の手紙では、谷崎の著作集のタイトルについて直接やり取りしたことが読み取れる。謎の人物像
『子規全集』の箱や茶箱(右)などに入れて、書簡類は保管されていた 大量の書簡から浮かび上がるのは、多くの作家に慕われた神代種亮とはどんな人物だったかという謎だ。 神代は、森鴎外や西周ら明治期に優れた人物を輩出した島根県の山あいの小さな町、津和野に育った。地元の小学校での教師生活を経て上京後、校正者として活動し、優れた能力で作家に信頼されたようだ。
交友関係を伝えるもので最も有名なのは、永井荷風の小説『
濹(ぼく)東(とう)
綺譚』の後書きにあたる文章「作後
贅(ぜい)言(げん)
」だ。この中に、種亮とみられる「神代
帚(そう)葉(よう)
翁」についての記述がある。荷風は彼の死を悲しみ、惜しんだ。
<小説の命題などについても(略)神代帚葉翁の
訃(ふ)
を聞いてから、
爾(じ)来(らい)
全く意見を問うべき人がなく>
生きていれば、脱稿後すぐに「閲読」をわずらわせたはずだとも記した。 「帚葉」の名は、落ち葉になぞらえたという。掃いても出てくる落ち葉のように、文字の誤りはいくら目を凝らしても現れる。際限ない仕事に携わる人に文学者が感謝を寄せ、公私を超えて交流し、その証しである書簡が出てきた事実は、ネット時代の今こそ重い。雑誌も刊行 川島名誉学長は、「これだけの資料が個人宅で、美しい状態で残されていたことは珍しい。資料の価値が理解されていたのだろう。代々、保管された意義は大きい」と語る。 神代は校閲の才能をきっかけに幅広く活動した。吉野作造の明治文化研究会に参加し、『明治文化全集』の編集にあたった。自ら「校正往来」「書物往来」と名づけた雑誌も刊行した。20~30年代には、読売新聞にも盛んに寄稿している。「夜長の話―私の見た文士と読書―」と題した随筆では、鴎外や芥川、谷崎らとの交際を回顧した。書簡の解読が進めば、その人物像にもより光が当たるはずだ。孫・聡さんが保管
「父からは『内容はわからないが著名な人の手紙が多く、貴重だ』と聞かされていた」 神代聡さん=写真=によると、書簡は神代の死後、戦災に遭うことなく、聡さんの父、正方さんが引き継ぎ保管していたという。 正方さんから、神代について多くを聞いたことはなかった。知識や話題が豊富だったことなどを、親族から伝え聞いた程度だった。正方さんの没後、2022年末にさいたま文学館の学芸員を通じて川島名誉学長に資料の存在を伝え、本格的な調査が始まった。 聡さんは「父親である種亮が何をしていたのか、父はずっと疑問に思っていたようだ。調査により、著名な人たちと親しくつき合い、信頼されていたことなどを知ることができた。父のためにも良かった」と語る。
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