「よみらくご」総合アドバイザー、演芸評論家の長井好弘さんが、演芸愛いっぱいのコラムをお届けします。長井好弘の演芸おもしろ帖
 春
爛(らん)漫(まん)
の東京で上方落語の精髄を聴く――。おなじみ「桂文珍大東京独演会」が記念すべき年を迎えた。主役の桂文珍が芸歴55周年を迎え、さらに長年のホームグラウンドだった国立劇場小劇場から、よみうり大手町ホールへと拠点を移して、16回目の公演を催したのである。
 出演者が年を重ね、慣れ親しんだ会場が変わっても、やっていることは変わらない。「三昼夜6公演の演目を、すべて当日の観客からのリクエストで決める」という意欲的とも暴挙(?)とも言える画期的な公演は、他の追随を許さない。
 文珍とゲストと一門の弟子と吉本興業と読売のスタッフが駆け抜けた
怒(ど)涛(とう)
の3日間の完全レポート。後半は、圧巻の
千(せん)穐(しゅう)楽(らく)
の舞台裏表とともに、文珍自作の人気演目「デジナン(デジタル難民)」についてのミニ考察もお届けする。
「わしは阪神ファン、でもこの3日間は巨人ファンやから」と笑わせた「わしは阪神ファン、でもこの3日間は巨人ファンやから」と笑わせた

 4/29(月・祝日)(昭和の日)

 ★千穐楽・昼の部

 ・文珍+楽珍「リクエストコーナー」

 ・楽珍「半分
垢(あか)

 ・文珍「憧れの養老院」

 ・ゲスト=三三「
狸(たぬ)賽(さい)

 ・文珍「口入屋」

 ・仲入休憩

 ・文珍「デジタル難民」
 開演前の午前10時半ごろ、東京・大手町の読売新聞東京本社・北通用口まで来た僕の目の前に、1台のタクシーが止まった。中から出てきたのは本日の主役、桂文珍ではないか。見れば入り口前には一番弟子の桂楽珍とスタッフ数人がずらり並んでいる。たちまちその中に巻き込まれた。 「長井さん、おはよう」「本日もよろしくお願いします!」 とりあえず、あたかも読売グループを代表しているような顔でお出迎えすると、文珍は「ほれほれ」とブルゾンの下の巨人軍のユニホームを見せて笑った。公演初日にプレゼントされた巨人軍特製ユニホームの背には芸歴55周年を記念して「BUNCHIN 55」と記されている。意気に感じた文珍は「わしは阪神ファン」とうそぶきながらも、公演中の行き帰りに巨人軍のユニホームを着用しているのである。 公演幕開けのリクエストコーナーでも、文珍はユニホームを披露し、「この3日間は巨人ファンやから」と満員の観客を笑わせている。 「(巨人の)阿部監督は、勝っても負けてもスタンドに向かってお辞儀をする。だから私も、ウケてもウケなくてもお辞儀をします」 リクエストタイムを待ちかねた観客から、次々と注文の声が飛ぶ。 「口入屋!」「老婆の休日!」「不動坊!」
 「住吉
駕(か)籠(ご)
、長いことやってないなー」「
鷺(さぎ)
とり、懐かしいなー、どんな
噺(はなし)
やったかな?」「はてなの茶
碗(わん)
、上方ネタの代表や」「不動坊と船弁慶、冬場の噺から夏のネタまで出ましたな」

 リクエストコーナーの注文とは別の観客アンケートでは、「デジナン」「憧れの養老院」「老婆の休日」「
地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)
」が上位演目だった。
 「うーん、難しいなあ。では、アンケート1位の『デジナン』と、『憧れの養老院』、それから、上方らしい商家のお話、『口入屋』をやりましょう(拍手)」現役のパイロットは「四国までセスナ飛ばしてうどんを食べに」 まずは、今やベテランの楽珍が相撲ネタ「半分垢」で露払いだ。 「師匠文珍から、『楽珍、お前、8月1日から桂ワクチンになれ』と言われました。『師匠、何でワクチンなんですか?』と聞いたら、『お前の落語は副反応がある』やて」 舞台袖で一番弟子楽珍の落語を聴きながら、文珍がセスナの操縦法のコツを教えてくれた。今も現役のパイロットであり、「この間、四国の山の中までセスナ飛ばしてうどんを食べに行った」という文珍の飛行機解説は、難しくてほとんどわからない。 「絶えず変わる気流を読みながら、軌道修正していく。(以下、延々と技術論が続き)落語も同じなんや。『半分垢』も、関取のカミさんが延々ホラ話をする場面で観客がついてきてるかどうかを素早く察知する。ダメだと思ったら、やめ時も考えないと」 なるほど。今日の楽珍は噺をやめなくても大丈夫そうだった。 文珍の1席目は、人気の高齢者ネタ「憧れの養老院」。前半部分のジジババの会話は「老人と耳」という題名にして、なんばグランド花月(NGK)の高座で演じて、吉本新喜劇目当ての客を大いに笑わせている。老夫婦が「目の検査ごっこ」をするだけのネタで、よくこれだけ笑いを取れるものだ。 「おじいさん、一番上の、右に穴が空いていマル印は、どこに穴が空いてるの?」「み、み、み、右じゃ」「じゃこれは?」「ばあさんの手がブルブル震えとるので、どれだかわからん」 トンチンカンなやりとりが延々続き、最後に「はい、耳の検査はこれで終わり」。「目」ではなかった! ミスリードとでもいうのか、これだけ気持ちよくだまされると快感になる。実力派の三三は動物と泥棒の噺。ちなみに文珍が毎年8月8日に大阪で開く「吉例88独演会」で今年のゲストも務める。文珍いわく「55周年と三三を足すと88だから」実力派の三三は動物と泥棒の噺。ちなみに文珍が毎年8月8日に大阪で開く「吉例88独演会」で今年のゲストも務める。文珍いわく「55周年と三三を足すと88だから」 舞台袖では、次の出番のゲスト、柳家三三が首をひねっている。 「何のネタやればいいのかな。リクエストで出たネタを考えれば、浅草演芸ホールのお客さんよりはマニア寄りだし……。旅の噺? 泥棒の噺? キツネやタヌキが化ける話?」 どういう基準で選んだのか、三三のネタは「狸賽」だった。 「化けるところは見ないよーに。変わる途中がちょっとエグいんです。重みを消すのが難しい」と化けるための技術論を語る子だぬきが珍しい。 「口入屋」を2席目に選んだ文珍は、三三の高座の間にネタをおさらいしていたようだ。久しぶりの口演なのだろう。
 現代の職業
斡(あっ)旋(せん)
業にあたる口入屋。店で働く
女(おな)子(ご)衆(し)
を1人頼みに来た商家の
丁(でっ)稚(ち)

 「今日はいつもと違って、『できるだけべっぴんさんを連れてこい』と番頭さんが言ってます」
 そこで選ばれたのが「頭を三度振る間にお尻を七回振って、伊勢
海(え)老(び)
が税金を納めに行くような形で入ってくるべっぴんの女子衆」だ。
 まったく意味不明の描写なので、後で文珍本人に尋ねてみた。 「うーん、ようわからんけど、昔からあるギャグやね。『伊勢海老が税金納めに行く』という言葉の選び方、使い方が面白いので、そのままやっているんやけど」 「かなり突飛な形容ですけど、爆笑王だった初代桂春団治の匂いがしますね」 「うん、実はわしもそう思うのよ」 仲入休憩を挟んで、昼の部のトリネタは「デジナン」だった。70歳過ぎて作った新作は高齢者ネタの総決算 閑話休題。 長いコラムの仲入代わりに、今回の6公演で文珍が演じた18演目のうち、最多の5回演じられた「デジナン(デジタル難民)」という新作落語について触れておきたい。 「デジナン」は、IT機器は持っているけど使い方がわからないというデジタル難民のおじさんと、マニュアル通りに仕事をするサポートセンターの若いスタッフとの、まったくかみ合うことのない、珍妙な会話だけで話が進む文珍の最新作である。 文珍という噺家は、古典落語の演じ手として高い評価を得ているが、若い頃から新作落語も多数作り演じてきた。代表作は、言わずと知れた「老婆の休日」である。30代半ばに作って、芸歴55周年の今日まで40年以上も演じ続け、今も絶大な人気を誇っている。 「老婆の休日」の大ヒットの後、文珍は高齢者ネタを絶えることなく作り続けている。
 「高齢者はいつの時代にもいるので、『高齢者あるある』ネタは古びることはない。でも長く演じていると、こちらの気持ちが変わってくるんですね。30代の頃は、若い世代が
爺(じい)
さん
婆(ばあ)
さんを観察しながらという感じだったが、いつの間にか自分も爺さんと言われる年代になり、今は自分の世代のこととして演じている。当然やり方も変わるでしょう」
 文珍の言葉通り、最近の高齢者新作「憧れの養老院」などは、明らかに背景となる「時代」の比重が高くなっている。老老介護、おひとり様の老人世帯、なじめないIT機器など、「老婆の休日」ができた40年前にはそこまで深刻ではなかった問題も主要テーマとして盛り込まれている。 文珍が「今」を強く意識して作ってきた現代の高齢者ネタの総決算が「デジナン」と言えるだろう。古典と新作の「二刀流」で走り続けて55周年。時代の流れを敏感に感じ取り、高座でマーケティングしながら練り上げたのが「デジナン」だ古典と新作の「二刀流」で走り続けて55周年。時代の流れを敏感に感じ取り、高座でマーケティングしながら練り上げたのが「デジナン」だ 「デジナン」は2021年の後半に作られた。新型コロナウイルスの感染状況が悪化していた時期は、客席に一握りの観客しかいないこともあった。「その間にいろんな実験的な噺をつくることができた」という文珍。そうした中で出来上がった「デジナン」は「高齢化とデジタル社会の落差を笑い飛ばす」という内容で、IT機器だけでなく、「アバター」や「メタバース」なども登場する実験的な内容だった。 こうして世に出た「デジナン」はなんばグランド花月でも積極的に演じられた。 「新喜劇が目当てで、落語をよう知らんというお客さんの前で演じて、あ、ここはわからんか、こういうところは通じるんや、と試行錯誤しながら演じることができる。吉本の劇場でマーケティングリサーチをしながら仕上げたのよ」 「大東京独演会」では2022年に初めて「デジナン」が演じられた。当時は新作のリクエストといえば「老婆の休日」が圧倒的上位を占めていたが、「デジナン」は演じ初めの頃から、いつ、どんな客層でも確実にウケていた。 尋常ならざる手応えを感じた僕はこの年、「師匠、『デジナン』のリクエストが出たら、毎日でもやりましょうよ。これは今が聴きどきのネタですよ」と文珍に勧めたのを覚えている。文珍も同じ気持ちだったようで、連日、「デジナン」を高座にかけてくれた。 携帯電話ショップでの高齢者と店員のやり取りを導入部に、カスタマーサポートセンターのスタッフとの掛け合いが始まる。「高齢者あるある」の受け答えと突飛な解釈が楽しく、客席の高齢者が同世代を笑うという光景が広がった。噺の流れでタップダンスやミュージカル映画の名場面を披露するという「エンターテイナー文珍」の見せ場もあるのだ。 当会のリクエストで、「永久1位」と思われていた「老婆の休日」を、今年、何回か「デジナン」が抜いた。 「70歳過ぎて作った新作がこれだけヒットするのだから、わからないわな」 「大東京独演会」の高座を見て、「デジナン」という新たなスタンダードができたと、演者も我々観客も改めて確認することができたのである。 仲入休憩の雑談にしては、話が長くなった。急ぎ、よみうり大手町ホールの高座に戻ろう。一番弟子の楽珍(左)と文珍。愛と笑いにあふれたリクエストコーナーでお客さんを楽しませた一番弟子の楽珍(左)と文珍。愛と笑いにあふれたリクエストコーナーでお客さんを楽しませた
 ★千穐楽・夜の部

 ・文珍+楽珍「リクエストコーナー」

 ・文五郎「
延(えん)陽(よう)伯(はく)

 ・文珍「デジタル難民」

 ・ゲスト=三三「締め込み」

 ・文珍「老婆の休日」

 ・仲入休憩

 ・文珍「らくだ」
「かけるのは年に1回」…文珍流「らくだ」の聴きどころは いよいよ今年の独演会シリーズの最終公演が始まった。 冒頭のリクエストコーナーもこれが最後である。文珍・楽珍師弟の愛と笑いにあふれたやりとりがしばらく聞けないとなると寂しい。 「一番弟子の楽珍です。本日は、あの、ようこそ、その……」 「楽珍、お前なあ、こんな短いあいさつで噛むなよ。こいつ、楽屋で三三くんに面白いことをたくさん話してたのに、高座に出たらボロボロなんです」
 「寝床、らくだ、
帯(おび)久(きゅう)

猿(さる)後(ご)家(け)

七(しち)度(ど)狐(ぎつね)

悋(りん)気(き)

独(こ)楽(ま)
、たち切れ線香……。みなさん、疲れるネタをぎょうさん言ってくれますなあ」
 「アンケートの上位は、デジナン、老婆の休日、それに、らくだですか」 「本日のおすすめもありますね。花見酒、落語記念日、携帯供養。うーん、どうしようかなあ」 迷いながらも文珍は「疲れるネタ」をやる気になったようだ。「トリのネタは『らくだ』でしょう」という空気が舞台袖にも客席にも漂い始めた。 四番弟子・桂文五郎のからりと明るい「延陽伯」に続いて、文珍の1席目は、もうすっかりおなじみになった「デジナン」である。 ゲストの三三は、昼の部と違って、まったく迷いを見せず、得意の「締め込み」を丁寧に演じた。 そして文珍の2席目。「老婆の休日」では特に高齢者ネタの小噺など振らず、すぐに本編に入って、病院の待合室でのばあちゃんたちの過激なおしゃべりになった。トリの「らくだ」に備えてのショートバージョンなのだろう。 仲入休憩の後、トリの高座は「らくだ」しかない。この「大東京独演会」で演じる時は、いつもまくらは喋らない。「らくだ、いるか?」の一言で、人情家と無頼漢が行き交う明治大正の上方の裏長屋へと、僕ら観客を連れて行ってくれる。
 例によって、
屑(くず)
屋と脳天の熊五郎の「飲み」の場面が長い長い。屑屋が酔うほどに貫禄を増し、ついには二人の力関係が逆転する。そして、熊五郎の顔にぐるりと円をかいている不気味な傷痕の真相が明らかになる――。文珍ならではの見どころだけに、ネタバラシはできない。聴いたことがあるという御常連は「あれだな」と納得するはずだ。そして、まだ文珍流の「らくだ」に巡り合っていない方々には、「ぜひ一度、聴いて、見てください」と強くお薦めする。
 「年に一度ぐらいしかやらないから、やるたびに出来が違う。難しいネタやね」 芸歴55周年の文珍が体力を温存し、三昼夜6公演のトリに持ってきた演目の「すごさ」を堪能してほしい。舞台袖には、上方落語らしく専門のお囃子隊がいる。息の合った仲間が6公演の高座を支えた舞台袖には、上方落語らしく専門のお囃子隊がいる。息の合った仲間が6公演の高座を支えた
 ラストは、6公演全ての舞台袖で高座を支えた「上方お
囃(はや)子(し)
隊」と一門の弟子を舞台に挙げて紹介する。三味線の内海英華、太鼓の林家うさぎ、笛の桂福矢。楽珍の紹介だけが忘れられるお約束あり。皆の期待に応え、舞台で派手にこける楽珍。
 いつもの顔といつものギャグで締めくくった、よみうり大手町ホールでの初めての独演会シリーズ。「また来年、この場所で」と再会を誓うフィナーレだった。
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プロフィル
長井 好弘(
Nagai Yoshihiro

 1955年東京都生まれ。都民寄席実行委員長、浅草芸能大賞専門審査員。著書に『寄席おもしろ帖』『新宿末広亭のネタ帳』『使ってみたい落語のことば』『噺家と歩く「江戸・東京」』『僕らは寄席で「お言葉」を見つけた』、編著に『落語家魂! 爆笑派・柳家権太楼の了見』など。