【編集部注】台湾産のライチ、マンゴー、ドラゴンフルーツが欧州連合(EU)の厳しい検疫をクリアし、6.5トンの果実がフランス・パリの高級市場へ正式に進出した。この見事な「フルーツ外交」は、筆者に近隣住民からライチを振る舞われた温かい記憶を呼び起こすとともに、台湾農業の圧倒的な実力に改めて感嘆させるものであった。
この発展は、台湾人の食に対する「クレーマー(要求水準が極めて高い顧客)並みのこだわり」が、世界レベルの農業革命を逆説的に牽引した結果である。国際的な知名度を誇る「金煌(きんこう)マンゴー」から、欧州の人々を驚愕させるほど柔らかく甘いキャベツに至るまで、これは単なる農業の成功譚ではなく、無数の農家や研究員が汗水流して築き上げた誇りの結晶である。
台湾の人々は食に対して並々ならぬ執着を持っている。単に美味しいだけでなく、最高の甘さ、柔らかさ、香りを求め、皮は極限まで薄く、種は最小であることを望む。さらに栽培面でも、台湾の気候に適応し、病害虫に強く、可能であれば一年中収穫できることが求められる。サービス業の視点から見れば、食に対するこのこだわりは間違いなく「世界一のクレーマー」と言えるほど厄介なものである。しかし、この極端とも言える要求水準こそが、台湾を世界でも稀有な「消費者の嗜好が農業革命を牽引する地域」へと押し上げたのだ。
台湾の農業改良技術の圧倒的実力、ライチやキャベツの独自の進化
ライチを例に挙げよう。台湾の「玉荷包(ぎょくかほう)」という品種は、皮が非常に薄く、果肉は肉厚で豊か、種は無視できるほど小さい。口に含むと爽やかな甘みが広がり、渋みは一切ない。これらはすべて育種(品種改良)の成果である。本来、ライチの種は大きく果肉の割合は限られていた。しかし、農業試験所などの研究機関が開発した「焦核化(種の退化)」技術により、特定の受粉組み合わせと後代の選抜を通じて、発育過程で種子を自然に退化・縮小させ、果肉を大幅に増やすことに成功した。数十年にわたる選抜の蓄積が、現在の玉荷包を生み出したのである。
農業試験所の取り組みは種の退化技術にとどまらない。彼らはライチ産業全体の構造を見据え、早生品種の玉荷包(5月)、中生品種の黒葉(6月)、晩生品種の糯米(もちごめ)ライチ(7月)など、異なる品種を育成した。これらがリレー形式で市場に出回ることで、ライチの生産シーズンを従来の1か月から3か月へと延長させた。この戦略は、消費者が長期間にわたってライチを楽しめるようにするだけでなく、全品種が同時期に出荷されて供給過多となり、価格が暴落するのを防ぐという農家保護の目的も兼ね備えている。育種の背景には、農業経済に対する緻密な計算が存在しているのだ。
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台湾人が海外で必ず受けるカルチャーショックの一つに、キャベツの違いが挙げられる。台湾人は柔らかく、甘く、繊細なキャベツを好むが、この嗜好が台湾の農業当局の育種方針となり、糖度が改良の核心的指標として設定された。世代を超えた選抜の結果、台湾のキャベツの食感は、欧州の人々はおろか、世界中の誰もが全く経験したことのない領域へと到達した。
幼少期に『オリバー・ツイスト』のような翻訳小説を読んだ際、スラム街や孤児院などの貧しい環境を描写する表現として「キャベツの悪臭が漂う」という一文を頻繁に目にした。しかし、当時の筆者にはキャベツがなぜ臭いのか全く理解できなかった。その謎が解けたのは、初めてフランスでキャベツを炒めようとした時である。
本当にひどい悪臭で、食感もプラスチックのようだった。昼食として調理したつもりが、まるで仇敵を招く「鴻門の会」に出す料理のようであった。
ズッキーニやアボカドの現地化栽培、限界を知らぬ農業の改良能力
筆者が個人的に最も高く評価している事例は、台湾産のズッキーニとアボカドである。
十数年前まで、ズッキーニやアボカドが台湾の食卓に上ることは稀であり、価格も高価であった。小さなズッキーニが1本100台湾元以上し、アボカドはニュージーランドからの輸入品しか選択肢がなく、味も平凡であった。その後、これらが広く普及するようになった背景には、市場での流行に加え、台湾の農業体系がこれらの外来作物に対して現地化に向けた育種を行った事実がある。ズッキーニはより耐暑性と耐病性が強化され、アボカドも零細な栽培から多品種・長期間収穫が可能な産業的生産へと移行した。
台湾産ズッキーニの特に優れている点は、輸入品よりも柔らかく、品質が安定しており、特有の苦味が出にくいことである。国内品種の開発と収穫管理の成熟により、新鮮な食感をダイレクトに消費者の食卓に届けることが可能となった。
アボカドに関しても、台湾では多数の品種が存在するだけでなく、早生、中生、晩生の品種が順次出荷されることで、5月から翌年の2月・3月までほぼ通年で供給されている。さらに品種ごとに特有の甘み、ミルクのような香り、脂肪分、クリーミーな食感といった差異があり、台湾産アボカドは輸入品と競争するだけでなく、風味の識別度において独自のポジションを確立している。
この技術力は極めて高いと言わざるを得ない。台湾の農業における独自の品種改良の成功例は枚挙にいとまがない。パイナップル、バナナ、ブルーベリーに加え、一度は途絶えながらも後に復活を遂げた米など、数え上げればきりがない。
世界を席巻するバナナの危機、台湾産バナナが回避できた背景
バナナについても同様である。現在、世界のバナナ産業は「新パナマ病(TR4:熱帯レース4)」の危機に直面している。かつて台湾で広く栽培されていた在来品種はパナマ病の蔓延によってほぼ壊滅し、現在の「キャベンディッシュ」種に取って代わられた。しかし、台湾は長期にわたり台湾バナナ研究所が遺伝資源の保存、耐病性選抜、種苗管理を実施しており、TR4に耐性を持つ「台蕉5号」や「台蕉9号」といった新品種を開発している。これに国内の栽培体系と植物検疫措置が組み合わさることで、台湾産バナナは今回の世界的危機に対しても十分な緩衝力を持ち、他国に比べて万全の備えを有している。
ブルーベリーは一般的に温帯作物と見なされているが、近年台湾では低温要求量が少ない品種(サザンハイブッシュ、ラビットアイ)の導入と現地栽培技術の確立により、中低標高地域や平地での栽培に成功している。台湾産の国産ブルーベリーは、鮮度や風味の面で輸入品と互角に競争できる水準に達している(本格的な大規模販売は2024年に開始されたが、筆者は偶然にもその機会を逃してしまった)。
さらに米、特に日本統治時代に日本から持ち込まれ天皇や高官向けの特別献上米として花蓮地域で栽培された「吉野一号」は、半世紀近くにわたり栽培が途絶えかけていた。戦後、市場のニーズから徐々に姿を消し、歴史の波間に消え去ろうとしていた。しかし、花蓮の老農・彭湧川氏の手によってこの品種は数十年間静かに守り抜かれ、1990年代以降、新世代の農家たちによる復元プロジェクトを経て、この幻の米は再び食卓へと蘇ったのである。
これら以外にも紹介しきれないほどの事例が存在する。ぜひ食べながら、台湾人に生まれた食の幸運を噛みしめてほしい。
政府への依存にとどまらず、農家の独自の手法が生み出した傑出品種
台湾農業において最も敬意を払うべきは、政府機関の体系的な研究開発だけでなく、学術的背景を一切持たず、土地に対する直感と驚異的な忍耐力によって産業全体を変革した先達の農家たちの存在である。
その中でも、台湾南部・高雄市六亀区の農家である黄金煌氏は、最も伝説的な人物の一人である。小学校卒業の学歴しか持たない黄氏は、1960年代にマンゴーの栽培を開始した。当時の台湾のマンゴーは、米フロリダ州由来の「アーウィン(愛文)」など、ほとんどが海外からの導入品種であった。台湾の農家は他国で開発された果樹を育てるだけで、独自の品種を持っていなかった。黄氏はこの現状に甘んじることができず、兵役期間中、近隣の農業改良場に密かに通い詰めて交配育種の基本論理を頭に叩き込んだ。除隊後に自身の果樹園に戻ると、独自の手法で品種開発に着手した。
黄氏は親株として「キーツ(凱特)」と「ホワイト(懐特)」の2つのマンゴー品種を選び、世代ごとに交配と受粉を繰り返した。各世代の果実の色、香り、肉質、糖度、耐病性を記録し、基準に満たないものを根気強く淘汰しながら次の世代へとつなげた。実験室も、助手も、研究資金も存在しない。果樹園が彼の実験場であり、一本一本の木が彼のデータベースであった。
黄氏の功績は、一世代の農家たちに「自分たちの力で育種が可能である」という強烈なインスピレーションを与えたのである。
それ以降、台湾全土で農家による独自の育種の気風が広まり、その命名方法も(食にこだわり、努力家で、アイデアと創意に溢れた)農家たちらしく、ユーモアと親しみやすさに溢れたものとなった。例えば、嘉義県の農家で農民党主席を本業とする張銘顕氏は、育成した新品種をそのまま「農民党一号」と命名した。台南市玉井区の農家・郭文忠氏は、地名の「玉」と自身の名前「文」を組み合わせて「玉文マンゴー」と名付けた。さらに、美女にちなんで名付けられた「西施マンゴー」なども存在する。これらの名称はすべて、「これは私の土地であり、私の汗の結晶であり、私が育て上げた果実である。ぜひ味わってほしい」という農家たちの誇り高いメッセージを発信している。
台湾の農業は自国を豊かにするだけでなく、国際社会への貢献も果たしている。特筆すべきは、台湾の農業派遣団、いわゆる「農耕隊」の存在である。1960年より、台湾は先駆的プロジェクトを通じてアフリカへ農耕隊を派遣し、現地の開墾、作付け、技術改良を支援してきた。1974年までに計23の農耕隊が派遣され、その足跡はアフリカ各国に及んだ。その後、農耕隊は「農業技術団」と改称され、太平洋の島国や中南米地域へと活動の幅を広げ、数十年にわたりその支援を途切れさせることなく継続している。
彼らは正式な外交承認が欠如しているという厳しい国際環境の中にあっても、現地の農家に野菜の栽培方法や新品種の育成、収穫量向上の技術を指導してきた。世界中のすべての土地に台湾の国旗を掲げることは叶わないかもしれないが、台湾の農業技術は着実に世界各地の土壌に根付いている。彼らの存在は台湾の誇りである。
産地から食卓へ、そして台湾から世界へ。台湾農業の発展は決して偶然の産物ではない。(食にこだわり、努力家で、アイデアと創意に溢れた)人々が、時間と忍耐、そして土地への確固たる信念をもって、世代を超えて少しずつ育て上げてきたものである。
台湾人として生まれたことを、誇りに思わずにはいられないだろう。
筆者紹介|特魯瓦通訊(Troyes Bulletin)
筆者はあらゆる分野を執筆するフリーライターである。2024年末、理由なき勇気(と少々の無邪気さ)を胸に、家族全員でフランス・シャンパーニュ地方のトロワ(Troyes)に移住した。そこには幻想的なフランスのフィルターはなく、リアルな異郷のフィールドワークが存在するのみである。文化、教育、国際情勢にとどまらず、美食、芸術、そして猫に関するテーマも発信している。ぜひフォローの上、混沌としつつも魅力的なフランスでの日々を、ともに楽しんでいただきたい。
