「中曽根康弘をブラジルへ呼んだ2世 日伯毎日新聞の高木ラウル元社長に聞く」インタビュー動画はここからどうぞ!

 高木氏が社長に就任したのは、軍事政権最後の経済混乱期の1983年。日系3紙の中でも規模が最も小さく、輪転機を持たない「一枚刷り」の印刷方式で、毎晩6時間かけて印刷していたという。競合紙が夜12時には配達を終える中、日毎紙は深夜から配達を始める状況で、経営環境は厳しかったという。こうした制約の中で、高木氏は「他社と同じことをしていては生き残れない」と、独自の挑戦を模索していた。

 転機は1984年ごろ、日本の政治関係者との縁から訪れる。当時、日伯関係に関心を持つ国会議員の紹介を受け、高木氏は中曽根元首相と初めて対面した。初対面では、ブラジル訪問歴をめぐる誤解から叱責を受ける場面もあったが、率直な対話を重ねる中で信頼関係を築いていったという。

 決定的なきっかけとなったのが、中曽根氏の著書『政治と人生』のポルトガル語翻訳構想だった。高木氏が翻訳の許可を求めたところ、中曽根氏は快諾し、出版記念の際にはブラジルを訪問する可能性を示唆した。こうして1986年、中曽根元首相はブラジルを公式に訪問。サンパウロ州工業連盟(Fiesp)での講演をはじめ、記念行事や日系社会との交流が実現した。

 この訪問は、単なる政治家の来訪にとどまらず、日伯間の人的・文化的交流を大きく前進させた。高木氏は、APPF(アジア太平洋議員フォーラム)などを通じて国際的な交流の場にも参加し、日本とブラジルを結ぶネットワークを広げていった。

 また、高木氏は新聞社としての社会的役割にも強い使命感を持っていた。1990年代には、在外日本人の選挙権拡大を求める運動を紙面で後押しし、記者たちの活動を支えた。経営的には厳しい判断を迫られながらも、「読者のために何を残すべきか」を常に考えていたという。

 高木氏は振り返る。「若かったからこそ、恐れずに動けた。仲間がいたから前に進めた」。元首相招請という大胆な試みは、日系新聞の枠を超え、日伯関係史の一頁を刻む出来事となった。