
80年前の沖縄戦では、県内21の学校から10代の生徒たちが動員され、多くの命が奪われました。そのひとつ、那覇市にあった私立の「開南中学校」は、記録が少なく、沖縄戦で廃校になったことなどから、詳しいことが分かっていません。残された遺族や学友は、戦後80年となる今、何を思うのか。“戦禍で消えた中学校”にはせる思いを取材しました。
(NHK沖縄 河合遼記者)
消えた開南中学校

那覇市の中学校で教頭を務める大城邦夫さん。戦前の学校について独自の調査を行ってきました。那覇市中心部の交差点やバス停。そこに、沖縄戦で消えた旧制中学校の痕跡がわずかに残されています。

(大城邦夫さん)
この近くに私立の開南中学校が当時ありまして、沖縄戦で焼失してしまってそのまま廃校になったと。
開南中学校が開校したのは1936年。海外へ移民したウチナーンチュの子どもも多く、国際色豊かな学校でした。

沖縄戦では、ほかの中学校と同じように生徒は学徒隊として動員されます。生徒190人と教職員が犠牲となり、動員された生徒はほとんどが命を落としました。生き延びた人が少なく、他の学校と比べてわかっていないことが多いといいます。

(大城邦夫さん)
唯一の男子校での私立ということで、それでまた人数も少ない。卒業生も歴史が短いので、少ないというのも大きな原因かなとは思います。
県公文書館には校長の回想録が残されていました。生徒たちはアメリカ軍が上陸する直前に、集合することになっていました。ただ、実際にどうなったかは書かれていませんでした。
見つかった校章に遺族は
ことし2月。最後の激戦地となった糸満市にあるガマで、その後の消息の手がかりとなる遺留品が見つかりました。

遺骨収集ボランティアの浜田哲二さんたちのグループが校章を発見したのです。周辺では遺骨も見つかり、遺族からDNA鑑定の申請を希望する声が続きました。
その1人、山田美枝子さん(87)です。兄の國吉眞昌さんは、いつどこで亡くなったか分かっていません。

(山田美枝子さん)
どこでどうなったかとかは、いつも頭の中に思っていて、開南の校章が出たから。開南中だと思ってね。兄が向こうから「ここにいるよ」と言っているような感じがしてね。
亡き友を思う男性
ボランティアグループと取材を進める中で、元生徒にも話を聞くことができました。
外間永徳さん(95)です。動員されず生き残ったことを遺族から責められ、開南中との関わりを避けてきました。

外間さんは、動員される前の詳しい状況を話してくれました。

戦闘訓練というんですか、戦している中をその線を引っ張って、有線隊はこうして、こっちの味方の兵と向こうの兵とをつなぐんだよというふうな。
動員は段階的だったといいます。学校から自宅で待機するよう指示されていた外間さんは、親友の喜瀬さんが先に軍へ合流する姿を見送りました。

開南中学の人たちは、みんな動員されるようになってはいたはずだ。1回目とか2回目とかという区切りをつけて。部隊に編入になったといって、喜瀬くんと与座に行く途中で出会ったんですよ。これが最後の別れ。消えて見えなくなるまで僕はそこに立って向こうにいくのを見て、見えなくなるまで立っていた。
外間さんはその後、区長から避難するよう指示され、家族で本島南部へ移動しました。そして、母親と親友の喜瀬さんを失ったのです。
80年の時をへて見つかった校章。心にしまい続けてきた亡き友への思いです。

できるなら、もしやこの記章が喜瀬のものだったら、遺族に見せてあげたいという思いがあったんですよ。これをつけてはしゃいでたんだからね。もしね、おまえのもんだったら。
