5月22日は、80年前の沖縄戦で、旧日本軍の第32軍が司令部を置いていた首里から沖縄本島南部へ撤退することを決めた日です。軍民が混在する状況となる中、最後の激戦地・糸満で家族を目の前で亡くした女性は、この日にどのような思いを抱いているのでしょうか。

(NHK沖縄 西銘むつみ記者)

南部で何が起きたのか

この5月22日に首里の司令部があったのを放棄して南部に撤退の決断をしたわけですよね。その時にね、もう戦争を終わらせていたら。

そう話すのは、那覇市首里に住む照屋苗子さん、89歳です。沖縄戦で家族5人を失いました。当時、南部で何が起きたのか、つらい体験を話してくれました。

南部への移動

アメリカ軍は、本島中部に上陸した後、激しい戦闘を繰り広げながら南下していました。標的としていたのは、首里城の地下に張り巡らされた第32軍の司令部壕です。司令部壕では第32軍のトップ、牛島満司令官が戦闘の指揮をとっていました。

当時、照屋さんは、首里城に近い寒川地区の壕に、家族や近所の人たちと一緒に身を寄せていました。

首里の壕から軍の人たちが来てね、兵隊が来てね。首里で1週間で戦争は食い止めるから、あなたたちは、本島南部には壕も準備されているからって、寒川の壕から追い出されたのよ。

壕から追い出され転々と

まず向かったのはいまの八重瀬町の富盛地区。母親が1歳の妹をおんぶし、兄、弟、祖母と6人で歩き続けました。

小さい道を草いっぱいあって、そこの溝なんかに隠れたりしてね。そして飛行機が、照明弾で標的を見た時には爆弾を落とすでしょ。落とされたらやられた人がキャーとか大きな声で耳に聞こえてくるんですよ。倒れていても、まだ死んでいない人もいて、目だけキョロキョロしている人も。ただ私たちは母親の服の袖をつかみながら。見てもね、かわいそうだね、助けてあげたいねという心は全くないんですよ。

たどり着いた富盛の壕では、よそ者だという理由で地元の人たちから追い出されたといいます。

次に避難した具志頭の壕では日本軍に追い出され、南部を転々とすることになります。この間、アメリカ軍の攻撃で兄と弟がけがを負います。

ようやく、糸満の新垣で壕に入ることができました。壕にはすでに3世帯ほどの家族が隠れていました。

そのとき、迫撃砲が…

6月14日のことです。水を探しに行った母親が、野戦病院に動員されていた姉の居場所を偶然聞きつけ、兄と弟の治療をしてもらうため壕に連れて来ました。そのとき、迫撃砲が撃ち込まれたのです。

落とされた時にもう祖母と姉と幼い弟は即死で、妹は肩やられていたのかね。その時の状況はね、爆弾が落とされてそこにいた人たちのやられた肉片がね、私の膝にもついていて、血でもう真っ赤に染まっていて私はその時に自分もやられたと思っていたんですよ。

その後、照屋さんは母親と兄、肩をけがした妹とともに摩文仁でアメリカ軍に捕らえられました。しかし、妹は収容所で息絶え、防衛召集されていた父親は帰らぬ人となっていました。命を落とした家族5人の名前は平和の礎に刻まれています。

住民の犠牲を拡大させた「南部撤退」。沖縄戦で命を落とした住民の6割近くは、6月以降に集中しているとみられています。

6月23日1か月までにはね、もうたくさんの人たちが犠牲になっているんですよ。軍の首脳に対してはね、肉親を失った私としては本当に憎い、憎いねと思います。今は世界ではまだ、自分たちが味わったことをやっているねと思うとね、悔しいですね。